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自分の人生に責任を持つ

ずっと、誰かに決めてほしいと思っていた。
誰かに方向性を決めてもらって、その道を走るだけで良いならそうしたい。それは世間一般で良しとされていたり、周りの人の期待であったり、メジャーあるいは無難とされる道であったりする。道筋が決まってしまえばもう後は何も考えずに進むだけで良いし、結果を人のせいにできるから楽だ。
そして、その道をひた走るという行為がひたむきな努力という美談で彩られて、最終的にどんな結果になろうとも傷が浅いあるいはノーダメージで済んでしまう。必死に頑張って自分で自分の人生を切り開いているような感覚になる一方で、その実、既存の道筋を辿っているだけで非常に他者依存的。私はこれまでずっと、そういう生き方をしてきたのだと気づいた。

親や先生の言うことを聞いて、真面目に勉強し、部活動に励み、ちょっとした挫折を経験しつつ、無難な道を愚直に進んできた。とても恵まれた環境で育ってきて、いろいろな経験をさせてもらってきた。受験勉強など、何かひとつの目標に向かって努力する中で、充実感や達成感を得る場面も何度もあった。

それでもふとした時に、何だか自分の人生を他人事のように感じてしまう瞬間があるのだ。自分の目の前にひとつボタンがあって、それを押すと自分が死んでしまうとする。もしそのボタンを誰かが押そうとしていても、私はそれを止めないだろう、あー私、死ぬんだな、と受け入れてしまうだろうなと高校生ぐらいの頃から思っていた。この話を知り合いにした時、「あなたはまだ子どもなんだね」と言われた。その時私は、その言葉の意味を理解できなかったし、子どもじゃないし、と憤りすら覚えた。
でも今はその言葉の意味が分かる。
私は自分の人生に責任を持つことを放棄していた。
自分では何も決められず、誰かに道筋を示してもらうのを待つだけ。私は子どもだった。
自分で考えて、選択して、進んでいかなければならない。親も先生も、誰も責任など取ってくれない。もちろん誰かの話を聞いたり相談したり、そういうことは必要でとても大切なことだけれど、決めてもらおうとしてはいけない。最終的に決めるのは自分自身だ。
将来のことなんてわからないからと先送りにして、何かを待って止まっている状態だった。何となく自分で決めてきたようで、受け身のまま何も変わっていなかった。
ようやく自分の人生に向き合おうとし始めたのだな。

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