わたしのお正月

 新しい年になりました。
 お正月はめでたいと感じられる方々には、あけましておめでとうございます、と申し上げます。
 なんもめでたくねえ、という方々には、もうすぐ日常に戻りますから、無事にやりすごしましょう、と連帯のご挨拶(笑)をお送りいたします。
 ♫もういくつ寝ると、ふつうのひ~、です。


 かつては、私にとっても、お正月はそれなりにめでたく感じられる、特別な時間でした。
 元日になると、年末に慌ただしく作った煮物と、元日に届いた年賀状、それに猫ふたりを連れて実家に帰るのが恒例。父は、いつもよりいいお酒を用意して待っていてくれました。
 そこで父と新年の挨拶を交わし、煮物をつつきながら、ひたすら飲み、語らう。テレビでウィーンのニューイヤーコンサートを聴きつつ、音楽が好きだった母を偲ぶ。翌日は朝寝坊し、ぼんやりと箱根駅伝を見ながら母校を応援。いただいた年賀状の返事を書いて、夕方からまた父と飲む……。
 ところが2012年の3月に猫のタレが逝き、9月にチビが世を去って、12月に父が入院。そのまま病院で年を越しました。いくつか煮物も作って持って行きましたが、とても食べられる状況ではなく、そのまま亡くなりました。以後、私は気分的にはずっと喪中というか……。
 お正月がめでたく感じられるのは、家族がいて、「1年を無事に過ごせたね、この1年も元気にやっていこうね」という思いを交わせることが、ありがたい、ということなんだなと、しみじみ思います。
 年末にばたばたと支度をしている時は、「何も正月でなくても、いつでも帰れるんだし」などと思っていましたが、お正月だからこその、だらだらまったりした時間を父と過ごせたことは、今になってみれば、本当に幸せでした。そういう時間を思い出し、反芻できるのは、恵まれていると思います。
 家族と離れて暮らす方は、実家に顔を出すか、あるいは「おめでとう」の電話をしてみてください。お正月は、普段は「話そうと思えばいつでも話せるし」「別に用はないし」と思っている人に、「『おめでとう』を伝える」という「用」を作ってくれているんだと思います。 
 そういうわけで、私の場合、お正月のための料理を作っても、もはや食べてくれる人はなく、待ってくれる人もいません。コンビニは年中無休でやっているし、スーパーも2日からは営業開始するので、煮物など作る必要はなくなりました。
 なのに、なぜかお正月が近づくと、何もせずにはいられない、という気持ちになります。
 なぜでしょうかね。
 よく分かりません。
 体の中に、季節限定で活動するDNAでも埋め込まれて、年末になると突然脳に指令を出したりするんでしょうか。
 作る品数は、父がいた時よりもずっと減りました。でも分量は、かつてと同じくらい、作ってしまいます。
 今回作ったのは、がめ煮(筑前炊き)と紅白なます、厚揚げ煮、きんぴら、それに数の子を塩出しして出汁に浸け込んだくらいです。それも、がめ煮用の里芋は、すでに下ゆでされたパックを、ごぼうは洗いゴボウを買うという手抜き。あとは、かまぼこの紅白をハーフサイズで買って終わりです。ただし、かまぼこはちょっといいやつにしました。

 厚揚げ煮は父の好物でした。今回はぜいたくに300円以上もする高級厚揚げを買ってみました。お正月だから特別……って、めでたくもないのに?
 なんだか全然一貫していないけど、そういう矛盾を抱え、必ずしも合理的な説明がつかない行動をとるのが人間というものでありましょう。一貫性は機械やAIに任せ、矛盾に満ち、不合理で、迷いながらぶれまくりの人生を送ってやる。そう開き直っているお正月です。
 猫のとこたんには、料理で余ったかつおぶしをてんこ盛りにして提供。日頃、「チュール」以外はカリカリが何より好きで、チーズもお刺身も見向きもしないという、猫としては模範生(飼い主的にはちょっと不満)な食生活のトコですが、やっぱりかつおぶしは特別なんですよね。息つく暇も惜しいという勢いで完食です。
 その様子を見ていたら、不思議と、なんだかとってもめでたい気持ちになってきました(笑)。
 新年、おめでとう!


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