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読もう。秋だし、1人だし。

心がボロボロになりかけてから、いつもよりも読書をするようになった。
小説ほど長い文章は読めないが、エッセイや短編集、短歌が特に身に染みる。

昨日から、喉からはシューシューと煙カスのような声しか出ない。病院で氏名と生年月日を言うたびに「あら…すみませんね」と労りを搾取する羽目になる。いきつけ(と言うにはまだ行っていなさすぎるが私のことを店主が覚えてくれていたのでそう言わせていただく。これからの決意も兼ねて)の本屋ではもっと話したかったのに

『カスカスカス(前の本も良かったです)。
カスカスカス?(最果タヒ先生の本はありますか?)』

と言った具合で、結局何も通じずに自身で探し当てた。
「お大事にしてくださいネ」とホットティーをいただいた(カフェも兼ねている本屋なので購入、と言うほうが正しいが、店主の優しさが故に)。暖かく、甘くとってもおいしかった。

耳はまだ全然マシだけれど、左耳からみんなの声がロボットのように聞こえたり、夜中にのたうち回らねばならないほど痛みを抱えていたりする。あまりにも痛くて母親とスレッズにたくさん弱音を吐き出したが、無論誰も何も答えてくれるはずもなく、ただ虚しく痛みと抱き合う羽目になった。もう投稿はなくなっている。せめて、頼むから眠らさせてくれ、とひたすらに意識を飛ばそうとしたが、痛みがまだここにいてくれと言わんばかりに現実にグイグイっと引っ張り、かれこれ5時間ほど痛みに悶える夜を過ごした。賢者のプロペラもあまり効かなかった。どうやって眠れたのかはわからない。気絶したのかもしれない。

こう書くととんでもない病やら、鬱にでもなったのかと思われても嫌なのだが、医者からは「まあ、風邪の延長ですね」と言われた。つまり、そんなに危惧するようなものじゃないということだけ残しておく。延長ってなんだ。風邪の先の、その診断名はなんなのだ。カルテに『風邪の延長』とでも書いているのだろうか。どうも医者と馬が合わず、何度か言葉を飲み込んだ。仕舞いには諦めたこともあった。ファイバー(鼻に細いカメラを突っ込むやつ)を行ったのだが、あまりにも唐突に、かつ躊躇なく行くためビビり散らかしてしまった。いつもごめんね。

そんな体になってしまったが仕事は溜まっているので消費していかねばならない。
ここ1ヶ月ため息の回数が明らかに増加している。どのくらい大変かと言うと、かなり大変だ。期限はないけど終わりが見えない。職場では“どうやらはるやは大変らしい…”と噂が回っているようだ。一体どこから?

気分転換をしようとも、なかなか気分が変わらない。
私はお笑いが大好きなのだけれど、どうも純粋に見られるような精神状態ではないらしく、ある程度意図的に避けている部分もある。と言っても結構見るし見に行くけど。ツンデレみたいね。都合が良いように受け取ってください。大好きです。

私からお笑いを取ったら何も残らないと悲しくてシクシクしていたのだが、あらま読書が残っていた。そういえば私はかなり本が好きなのだ。
前述したように、いわゆる小説(大好きな太宰治先生等々)は今は読むことができない。集中力が続かなくなってしまった。が、故に短篇集が本当に身に染みるのだ。
また、エッセイなんかは他人の思考をなぞらせていただけるので自分が自分でなくなるような、まさに現実逃避をすることができる。この時間だけが、仕事も体調も欲求も全て忘れることができる。

読めない、といいつつ覚えている太宰治先生の如是我聞にこういう一節がある。

本を読まないということは、そのひとが孤独でないという証拠である。

私は孤独を受け入れるために本を読んでいるのかもしれない。孤独と戦う私に、卑下もせず裏もなく、そっと寄り添ってくれるのは読書だけだ。

やはり本だけが私を優しく抱きしめてくれる。
私の頭を撫でてくれる。
本と寄り添い、本に抱かれる。

しかし、無情にも仕事は降りかかり続ける。
そっと本と逃げたい。現実の範疇を越えたところまで。

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