生きる理由 君に教えられた



2018年1月9日。

忘れもしない、アイドルどころか芸能界にも疎かった私が、齋藤飛鳥という一人のアイドルと出会い、救われた日。



(しばらく自分語りが続くので興味ない人は飛ばしてくださいね)


小学生の時にあるスポーツを始め、以来、大学まで部活に明け暮れる日々を送っていた。昔から体を動かすことが好きで、自主トレも苦じゃなくて、朝から晩までそのことばかり考えて、推薦の話をいただいたりもして。スポーツに熱中している時間こそが幸せで、生き甲斐だった。

けれど、そんなに甘くはいかなくて。ある日、これまで原因は分からないと言われながら付き合ってきた足の痛みに初めて診断名がつき、突然手術をするか否かの選択を迫られた。このまま騙し騙しやってるといつか歩けなくなるよと。それならばまた思い切り走れるようにと手術を受けることに決めたはいいものの、誤算だったのは一度の手術で完治しなかったこと。結果、二度手術を受けて医師から言われたのは、"ごめん、スポーツはもう辞めてほしい"。

全てを失ったと思った。そんなことないのかもしれないけど、そう思うには十分だった。それでも毎朝部活に顔を出して、トレーニングをしながら自分がもう戻ることのできない練習風景を眺めて、もう復帰できないのにリハビリに通って。何してるんだろうって毎日思っていた。はっきりと"辞めろ"と言われた訳ではないから少しの希望を持ちつつも、チームメイトからの「待ってるよ」の言葉も、「また一緒に試合出よう」の想いも、全部が苦しくて、遠ざけて、塞ぎ込んで、閉じ籠って、これまで感じたことのない孤独に襲われた。


2018年1月9日。 その日も朝から部活に行き、授業を受けてリハビリから帰ってきた後は、いつものように布団の中で不貞腐れていた。いつもと違ったのは、テレビをつけていたことくらい。ほぼ全くと言っていいほどテレビを見ない生活だったけど、その日は何となく、本当にただ何となくテレビをつけたんだ。音のない部屋が窮屈で、雑音が欲しくて。


初めて見る番組だった。そういう番組があることすら知らなかった。齋藤飛鳥という、一人の女の子が特集されていた。

〝セブンルール〟


30分、何も考えずにただボーッと眺めていたと思う。枕が冷たくて、それが涙だと気付くのに時間がかかった。怪我が分かってから初めて泣いた。どうして涙が出たのかは全く分からなかったし、正直未だに分からない。

ただ、すごく気になってしまった。この子は何を感じて生きているのだろうと。どういう目でアイドルという世界を見て、どういう感性で物事に触れているのだろうと。テレビの中の人を、こんなにも知りたいと思ったのは初めてだった。「齋藤飛鳥」と検索し、色々知った。まず同い年だということ。屈指の小顔で有名で、可愛らしい見た目に反して毒を吐くこと。アイドルという幻想のような世界にいながら、現実思考でどこか達観した一面があること。乃木坂46というグループに属するということも、この時知った。そして、知れば知るほど、もっと知りたいと思うようになっていった。

しばらくして友達に「最近また笑うようになったけど何かあったん?」と言われてハッとした。笑っていなかったことにも気が付かなかったけど、そこで初めて、あぁ、あの時救われたんだと思った。心当たりしかなかった。今になって振り返ると、飛鳥ちゃんの言葉を借りれば「その人間性でアイドルをやってる」飛鳥ちゃんに心が救われたのだと思う。



それからの生活は、本当に文字通り180°一変した。


未練がましくズルズルと引きずっていた部活も、ようやく辞める決心をし、10年以上もの間続いていたスポーツ漬けの毎日から離れた。そうこうしている間も、飛鳥ちゃんのことを知りたいと思う気持ちは募るばかりで、好きなんだなぁと気付いた頃には、しっかりオタクが出来上がってしまっていた。

好きになり始めるきっかけは何だろう?
知りたいと思う気持ちだろう

(『知りたいこと』、私の隠れテーマソングだったりする)



飛鳥ちゃんを好きになってからの日々は、本当に楽しかった。毎日が刺激的で、全てが未知の世界だった。


初めての現場は、灼熱地獄の中、スタンド最後列から見た全国ツアーだった。そもそもライブというものに行ったことがなかった私、コールとサイリウムに圧倒され、ステージの上の飛鳥ちゃんに目が釘付けになった。続くバースデーライブ。花道横の席から「飛鳥ちゃん」と呼ぶと振り向いてくれて、タオルを指差した後で飛び跳ねながら両手で手を振ってくれたあの光景は、今でも鮮明に目に焼き付いている。まさかの三度目の手術で入院中、外出許可をもらって松葉杖で『あの頃、君を追いかけた』の舞台挨拶を回ったのも良い思い出。


それでも、数ある思い出の中で一番印象深いのはやっぱりこの日かもしれない。それまで何となく避けていた握手会に、初めて参加した日。初めて飛鳥ちゃんの手を握り、言葉を交わした日。

2019年7月28日 Sing Out!個別握手会

ありがとうって直接伝えなくていいんか?とオタクに諭され、覚悟を決めた。たった一枚の握手券を握りしめて横浜に遠征し、ソワソワと落ち着かない心で半日待つ。絶対にありがとうと伝えるんだ!と意気込んでいざブースに入ると、テレビの中の人が目の前にいるあり得ない状況と、そのあまりの小ささで一瞬にして頭は真っ白になった。何度も重ねたシミュレーションがまるで意味をなさない。何も上手く話せなかったような気がする。ただ、感動とパニックと不甲斐なさとで泣きそうになっていると、「泣かないで」とでも言うかのように目をまん丸にして手をギュッと握ってくれたことだけは、今でも忘れられない。多分、忘れられる日は来ないだろうなと思う。これまで画面越しや誌面から散々感じ取ってきた彼女のやさしさを真正面から受けてしまい、あーあ、この人のこと一生好きなんだろうなと、思った日だった。

この年、全国ツアーで全ての地方を回った。飛鳥村に遊びに行ったのもこの年のこと。気付けば握手会に参加するのも当たり前になり、祖父母の話に目を輝かせる飛鳥ちゃんに、本当にシニア系の話好きなんだなぁと笑みが溢れたのを思い出す。これが最後の握手会になるなんて、この時は思ってもいなかった。


兎にも角にも、飛鳥ちゃんの居るところに行った。飛鳥ちゃんが出ていればテレビにもラジオにも齧り付いたし、そのためなら朝が早くても起きられた。飛鳥ちゃんの言葉を追いかけ、飛鳥ちゃんの読んだ本を読み、聴いている音楽を聴いた。好きだと話していたものは、片っ端から手を出した。

私の人生が飛鳥ちゃんを中心に回り始めたのはいつからだろうか。


飛鳥ちゃんからもらったものは数え切れないほどある。握手会でかけてもらった言葉は今でも私のお守りだし、飛鳥ちゃんを追いかけた先で見た景色は全てが宝物。就活で苦しんだ時、社会人になり新しい環境で不安だった時、仕事に追われて心が追いつかなくなった時、一人で耐えるしかなかった時に支えになってくれたのはいつだって飛鳥ちゃんの存在だった。彼女の言葉に心を救われ、その姿を見て奮い立たせた。

それでも一番の贈り物はやっぱり、友達が増えたこと。年齢も性別も住む場所も何もかもバラバラで、オタクをせずに生きていたら決して交わることのなかったであろう人と沢山出会うことができた。オタクをやめても仲良くしたいと思える人たちと出会うことができた。価値観も人生経験も様々で、でも推しへの気持ちは真っ直ぐで、それぞれに尊敬できるところがある、素敵な人たち。幸せ者だなぁと思う。学生時代の友人がみんな地元に残る中、一人だけ上京してきて心細くなかったのも、飛鳥ちゃんのおかげで出会った人が居てくれたから。



熱しにくく、冷めやすい。典型的な趣味無し人間にも関わらず、好きになってからずっと変わらず好きな自分に、驚きつつも少し嬉しさを感じる今日この頃。

ただ、もっと早く出会いたかったと思ったことがないと言えばもちろん嘘になる。何度も思ったけど、でもあのタイミングじゃなきゃきっと出会えなかったのだろうななんて思う。



"月と太陽"でよく月に例えられる飛鳥ちゃん。私が飛鳥ちゃんに出会ったあの日、確かに飛鳥ちゃんは月だった。それは、周りに照らされて輝いているという意味ではなく、真っ暗な夜をやさしく照らしてくれるという意味での月。

そうやってやさしく、モノクロだった世界に色をつけてくれたのも、この世界にはこんなにも沢山の色があるのだと教えてくれたのも飛鳥ちゃんだった。


だから、ミーグリで最後に伝えた言葉、ありきたりかもしれないけど、最後に直接言葉を届けられる機会があるのなら、その時伝える言葉はこれにしようって、ずっと決めてたんだ。「ありがとう、まめ」と微笑み返してくれたあの笑顔、一生忘れない。ずっと、ずっと、世界で一番しあわせでいてください。



飛鳥ちゃん、

私の人生を彩ってくれてありがとう。


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