最近思ったこと

(タイトルの汎用性が高すぎる…)
いまだにこういうブログ的な文章の体裁がわからないあむーるです。一字下げるのとかって文章書くうえでは共通のルールな気はするんですが、どうもこういう文章だと見栄えがよろしくないような印象をもちます。
まぁそれはどうでもよくて、今回の文章は以前からつらつらと考えていたことをライトに文章化してみようという試みです。形式とか堅いことをあまり考えずに書きたいと思います。

何について書きたいかというと、「Twitterについて」です。別にこれによって読んでくださった方を啓蒙しようなどというおこがましいことは考えてないです。あくまでも私個人の考えを文章化します、あしからず。
「Twitterについて」といってもそんなに壮大な話ではなく、最近私のいるTwitterのタイムラインがヒリついてるなあとかそういう話です。
こういうことをTwitterでいうと、文字数制限があるおかげで見事にいいたいことがいえません。これは私の文章力が皆無なのも多分に関係していますけれど。そういうわけで、このnoteという場で書き散らします。

まず前提条件として、私はTwitterユーザーであることを理解してください。まぁそれはこの文章にたどりついて読んでくださっている方の多くにとって自明かと思われます。毎日毎日飽きずにツイートばっかりしてんなあと思われている方もいるかもしれません。それに関してはすみません、直す気はないです。このことについては後述するので、言及するのはここまでにします。

それはともかく、客観的に見て私はかなり多くのツイートをするとして間違いないでしょう。こういう人がフォローしている人のなかにいるときに便利なのがTwitterのミュート機能です。これは先方に知られることなくその人の普段のツイートのみを非表示にできる機能です。
非常に便利なミュート機能ですが、この機能の目的はなんなのか。前述したように、ツイートが多い人で自分のTwitterのタイムライン(以下『TL』とします)が埋まらないようにすることが一番の目的でしょう。しかし、それ以外にも目的があります(使ううえでの心構えともいい換えられます)。
それは、「自分が不快に思うツイートをする人を視界に入れないようにする」目的です。同じ目的のための手段としてアカウントのブロックがありますが、個人的にはこれは最終手段だと考えています。ブロックは先方にもブロックされた旨が伝わるので、いってみれば「あなたとはもうTwitter上で関係を持ちたくありません」と先方に主張するかなり強いアピールです。
それに対して、ミュート機能は先方に伝わりません。たとえミュートしていることが先方になんらかのかたちで知られたとしても、それはブロックと比較すると格段に弱い主張になります。そもそもTwitterのプロフィールに『ミュート推奨』と明記する人もいるくらいです。
すなわち、ミュート機能はなるべく波風を立てずに自分のTLをつくりあげたいと考える人にとってこれ以上ない機能だといえましょう。
したがって、私はミュート機能をどんどん活用していくべきだと考えています。ミュート機能はフォローしていないアカウントでも有効なので、素性も知らない人のツイートに神経を尖らせるくらいなら積極的に自分の視界に入れない努力をすべきです。
私のアカウントはミュートを推奨しますし、私自身もミュート機能を利用していきます。もちろん、ミュートなんて手ぬるいからどんどんブロックしていく、そんな考えでも全く問題ないと思います。

書きたかったことがひとつ終わりました。もうひとつ書きたいこと、それは「Twitterでアイデンティティをつくりあげるものではない」ということです。
アイデンティティという語について、私の電子辞書(『広辞苑 第六版』)にはこうあります。

 アイデンティティー【identity】
①人格における存在証明または同一性。ある人が一個の人格として時間的・空間的に一貫して存在している認識をもち、それが他者や共同体からも認められていること。自己同一性。同一性。
②ある人や組織がもっている、他者から区別される独自の性質や特徴。「企業の—を明確にする」

ここでは②の意味で話を進めていきます。

さて、私の在籍している大学では昨年の時点で来年度のAC・推薦入試の合否発表があり、それとほとんど同時にその合格者のなかでTwitterのアカウントによって私たち(私はほとんどいませんが)と交流しはじめる人が出てきています。こうした人たちは2018年度の入学生であることから「18生」と呼称されています。
私個人としてはこのような18生の存在はおおいに歓迎しています。私自身が推薦入試で入学した身なので、この時期に出てくる18生には少なからず親近感を抱きますし、またこの時期から交流を始めていて純粋にすごいなあと思っています。交流を始めた18生のなかには、フォローした人にもよりますが非常に活発なTLを目の当たりにして、この大学が一部でTwitter大学と揶揄されるゆえんを感じたかと思います。
しかしここで留意してほしいのは、Twitterはこの大学を映し出しているものではないということです。さらにいうなら、そうした勘違いのもとでTLを俯瞰し、それによって自分のキャラクターづけをしてはいけないということです。
Twitterは、鍵アカウントにしない限り自分の発信が全世界に知られます。それだけならまだいいのですが、多くの人が大学アカウントというかたちでそれぞれのアカウントを運営しているため、全世界というマクロな空間に知られる発信を大学というミクロなコミュニティ内で完結させるというある種特異な環境が生じます。自分でもうまいいい方が思いつきませんが、上の開いた小さな樽がいくつも大海原をたゆたっているようなイメージです。
余談はさておき、私の考えとして、自分の見ているTLがすべてを表していると思ってはいけないというものがあります。むしろ、自分の見ているTLはほんのちっぽけな、コミュニティですらない集団の一部かもしれない、と。そんな集団のなかで自分のキャラクターづけを自らの手によってするのは危険なことだとは思いませんか?
たかがTwitterの話、と思われるかもしれません。ですが、私がそうだったからこそいえますが、Twitterの言動は現実でのふるまいに少なからず影響を及ぼします。極論をいえば、きわめて小さな集団の内輪ノリが自分の言動を侵食していくわけです。それはとても怖いことのように私には思えます。
Twitterにおける自分のキャラクターづけ=アイデンティティの形成は自分自身でするものではありません。むしろ逆です。逆であったとしてもそれに喰われる人もいるかもしれないのに、自らでそれをやりはじめればどうなるかは想像に難くないと思います。そして、そうやって得られた「個性」はいずれ自分自身を苦しめることになるでしょう。

ふたつのトピックに共通して私がいちばんいいたいことは、「Twitterに喰われないでほしい」ということです。毎日毎日死ぬほどツイートしてる人がこんなことを書いても説得力がないかもしれませんが、これは本当に大事です。
もちろん、Twitterの使い方は人それぞれです。暇つぶしに使う人もいれば、誰かとコミュニケーションをとるために使う人もいる、いろいろな負の感情のはけ口にしている人もいるでしょう。それでも、一歩引いてTwitterを「所詮ただのメディア」と捉えつづける視点は、どうかなくさないでください。

ライトに文章化するつもりだったんですが、どうも私には無理だったようです。まぁ論の展開が行き当たりばったりなところがライトといえばライトかもしれません。そういうところも含めて私なので別になんともないですが。
では、このへんで。

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