そのときはもう、恋は終わっていた

七才からこっち、ずっと漫画家になりたかった私が、たった半年間、

普通の結婚とお母さん

を志したことがあった。
中三。
テニス部のキャプテンだったSとつきあってた(らしい)日々。
なぜ交際になったのかもよくわからない。
気づいたら、クラス公認カップルだった。

なんとなく一緒にいて、冷やかされる感じ。
仮面ライダーもウルトラマンエースも緊急指令10-4 10-10も吹っ飛んだ。
魔神ハンターミツルギさえ吹っ飛んだ。
自転車通学の彼が押す自転車の脇を、ただただ歩く、そういうデート。
ものをかく私のカレシだから、ただそれだけの理由で、私と一緒に文集委員にもされた。
文集の原稿は集まりがよくなくて、私たちは穴埋め記事をたくさん書く羽目になった。

秋。
相手の誕生日。
プレゼント選びに帰宅が遅れた私は、軍隊式父の正拳をくらい、顔の真ん中に大きな黒痣をもらった。
学校では階段から落ちた、と話していたけど、彼には父に殴られたことを話した。

プレゼント、高くついたね

とかれはいたわってくれたけど、このあたりからだと思う。
かれは私を徐々に疎みだした。

私の誕生日を知らないから、と、かれは

“自分の誕生月花の柄の”

ネックレスをくれた。
この頃俳句の授業があって、大高緑地(後に著しい猟奇犯罪事件の舞台となる。※後述)のボート池で、私のした実作は、

さざ波や小春日和に空映す

だったけど、かれの実作はこうだった。

心にも北風が吹く季節かな

あれっと思った。
そしてそれはほぼ当たっていた。


距離


間違いなくかれは冷めてきていた。
そうなると追うのだ女は。
大して好みじゃなかったのに、私はボロボロになってゆく、心はもうすっかり負け犬である。
慕えば慕うほど、かれは遠のく。
そして年末、かれに言われたことはこうだった。

意識しすぎだよ。
もっと前みたいに、普通に戻れないかな。

ああそうですかそうですか。
今の私ならピタッと凍るだろうが、若さとはバカさの別名だ。
私はただただ傷つき続け、“今作ってる”とか本人が抜かしてたプレゼントは届かず、目立たないよう目立たないよう、私ひとりが気をつけながら、バレンタインデー当日を迎えたのだった。
渡していいものか悪いものか。
当日まで迷いに迷った挙句、私はチョコの手渡しを諦め、かれの自転車の荷台のカバーにそれを隠した。
電話したら、かれは私からだとはわかっていた。
でもそれだけのことだった。


後日談


かれは男子高へ行き、私は女子高に行った。
もう未練はなかったが、お情けのように年一、バレンタインデーの朝、会ってもらった。
少し歩き、チョコを渡した。
高一、高二、高三。
高三の時は、チョコに白いハンカチを添えた。

別れのしるしに
あなたの手のひらに
白いハンカチ乗せました

      石川さゆり『霧の別れ』

意味なんかわからなかったろう。
でも私は未練なんかみじんもなかった。
生涯の恋人w・勇者ライディーンのひびき洸にも出会っていたし、さらに数年後には第二の生涯の恋人ww・無敵鋼人ダイターン3の破嵐万丈にも出会う。
アニメ時代も特撮時代もこれから新たな円熟期を迎えるところで。
この別れのすぐ後、私は犬山モンキーパークで、ほんの一時期だが歌のおねえさんになるのである。


私にとり、かれは全然役不足だった。
でも私は失恋し、失意のどん底に沈んだ。
このときちゃんと懲りてたら、私は同じ過ちを、人生最大のチャンス期に操り返すこともなかったろう。
でも私は十年後、同じ過ちを繰り返し、せっかく得た、

“才能豊かなシナリオライター”

という、噂や美名やたくさんのチャンスを、とことん、完膚なきまでに、叩き潰してしまうことになるのだ。
ああ無情。


それでも詩人のテニスンは言う。

一度も恋をしなかったよりは、恋をして、失った方がまし

だとさ。

たしかに。


あ、そうそう。
私たちの編纂した卒業文集が。激評判悪かったことも追記しておこう。
あまりの出来の悪さに怒った友人らが、私『だけを』ハブってシカト。
これは卒業式の朝まで続いた・・・
そうつまり。


この恋は、誰の役にも立たなかったのである。



※ 大高緑地の猟奇事件

名古屋アベック殺人事件

といえば、ご記憶の方もあるだろう。
1988年2月(うわ!よりによって2月なのか!)に、愛知県名古屋市の大高緑地で発生した殺人・集団強姦事件だ。
被害者男女が襲撃された場所の名前から、

大高緑地公園アベック殺人事件

とも呼ばれているそうな。
このちょっと後、1988年に東京では、

女子高生コンクリート詰め殺人事件

が起きる。
何かそういう、妙に殺伐とした時代が、このあたりから始まるのだ・・・


それでも地球は回っている