シナリオと小説の違い

一言で言えば

小説は自分のもの、

シナリオは、映像化した人のもの、

ですね。

脚本監督両方やれば、自分のものですが。

監督が脚本に口出すことはできても、

脚本が監督に口挟めることはまれです。

私の三大師匠の一人は星山博之ですが、ガンダムは富野良幸(現・由悠季)のものです。

ダイターン3は第一話も最終話も星山さんですが、やっぱり富野のもの。

そういうことなんです。

(作品間違ってないかを確認のためウィキ入ったら、泣けてきた。

 恩返しも何もしてない。

 ちょっと傷心・・・)



・・・と。


涙を拭いて、続けましょう。


小説は(あなたがゴーストライターでないかぎりは)、隅から隅まであなたのもの


シナリオは、良くて単名、たいていは、監督、演出にダブルネームされますし、下手すると監督に単名されてしまいます(けっこう弱い立場)。

叩き台~本物のシナリオにするための仮台本扱いされるシナリオ~呼ばわり

されますし、

中身全とっかえ!!

なんて平気でされます。

どっかのリュック・ベッソンが、

泣き虫の女の殺し屋の話

を撮って当たったあの頃は、

とにかく女の殺し屋の話にしたい演出家

だらけでした。

(本邦の、大半の演出家は、そういう二番煎じけっこう平気でして。

なんとなればあの市川崑さえ、かぐや姫をスピルバーグ風UFOに乗せて悦に入っていた・・・SF心のない人がSFを撮るとこうなる。

 そういういみで先述の監督、演出家たちはノアール・フィルム心がないくせにノアール・フィルムをつくろうとするからリュック・ベッソンのまねになったのだろうと、私は今も思っています)


この話はそういうのじゃなくて・・・

なんていってもそういう連中には通じません。

・・・あ。

これも余談ですね。


小説はすべてあなたのものだが


それだけに、オリジナルのアイディアかどうかは気になるところですよね。

紀元前から続く表現の歴史の中で、大概のアイディアは出尽くしています。

一作思いつくたびに、既出を疑ってください。

広い見識のある方に、意見をもらうようにしてください。

どのかたのほめ言葉が真実か、見抜けるあなたでいてください。

自分の心を慰めたいために、甘い評価を求めない。

芯の弱い人間の書く作品は脆いです。

脆さを美しさなんていってる人の作品は酔っ払っています。


さりとて!


デリカシーのない作品も興醒めです。

芯のしっかりある、

されどはかなさもある作品。

それが小説だと思います。



それでも地球は回っている