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誰もほんとうには愛せなかったと悔やむ人生と

生きてこの先、会うことはないと深夜に目覚める人生

どちらが

より

苦しいのだろう

                                 「クロッカス」(『あたしと一緒の墓に入ろう』)

冒頭の連が自己への問いかけで始まるこの詩を書いたのはもう10年以上前になるだろうか

光浦さんのエッセイが同世代女子の静かな共感を呼んでいるとか。

私もアラフィフで独身(婚姻歴ありだけど)、ノーキッズ、姉とは絶縁状態、友達もごくわずか

な人間だ。

彼女の言うように家族がいなければ誰からも必要とされていない

部分があるのかもしれない

でもなぜか私はそう思っていない。

私の思考は同世代の女性に一向に共感を持ってもらえそうにない

それでも書いておきたい

自分の今までの人生をふりかえると詩集タイトルにするほど「墓守」人生だと感じるけれど人の死を身近で感じてきて私がたどり着いた答えは

死ぬ瞬間、そしてその過程

は誰がそばにいようともいなくとも他者の理解が到底及ばないほどひとりきりである(きっと周囲の人が悲しんだり心配しすぎないように取り繕うだろうけど)

ならばその間際

「わたしはこれだけ愛した。愛された(思い込みだったとしても)そして自分の心のままに生きた」

と思える生涯をまっとうしたい。

だから

恋愛も友達も詩も

まがい物だと感じたら

それにすがりつかない

である。

愛に限定すると

胸を張って愛しきったと思える男がいる

「クロッカス」で書いた一世一代ともいえる私の恋だ

私が21歳、彼が20歳のときに出会い結局15年以上の親交があった。

大阪に住んでいた私が福岡に定住するきっかけになったのも、人からねたまれるような結婚生活を捨てて離婚に至ったのも彼が原因といえば原因だ

最後に会ったのは私が離婚後再就職し一心不乱に働いていた頃だ

彼はすでに3人の子供の父親になっていた。

以前一度だけ即興詩をオープンマイクの場所でやってみたことがあり(やたら長くなってしまったけど)「クロッカスその後」をそこでだけ披露した覚えがある。それからは詩にもしていなかった。

「クロッカス」を泣きながら書いた頃の私に教えてあげたい

大丈夫だから。

いまどんなに辛くても何年か後

ハッピーエンドじゃなくてもすばらしいエンディングを経験できるよ

この人と出会えてよかったと心から思えるよ

そう耳元で。

                         (つづく)


アンビリーバーボーな薄給で働いているのでw他県の詩の勉強会に行く旅費の積立にさせていただきます。