最後に。痛みを抱くすべての詩を書く人へ
網野杏子でのnoteアカウント最後だからといってこんな仰々しいタイトルにして恥ずかしくないのか。自分に問うがこのタイトルにしたかったので。
まず、関係ないけど
気持ちをざわつかせる地震注意報や、東北の台風予報や、それでなくても炎天下でお盆休み中に働いてくれてる、炎天下でなくても人がうららかに休んでいる時に働いてくれてるみなさん、本当にありがとうございます。
こんな時も働いてくれてる人がいるからお休みできる人がいるのよ。
私は宅配さんに冷たいジュースと飴手渡し運動実施中(←これ、詩友妻がやってると聞いてまねっこ。出来るときだけ!ですけど。自分がカツカツでも
自分にしかお金使わないケチが嫌いなもんでw。)です。
当たり前じゃないんよ、さまざまな便利って。
※出た。最後まで語り口調七変化語尾不統一。気持ちだけで一気に書くと、こうなる。
いつものタイトル詐欺、お説教からはじまっとるやん!
しかし繋がってる気もしてる。(また?)
物書きって自己中ナルシスト率お高めだと認識しているから。
(もちろん自分も例外じゃないぞ。これを書くのもお約束)
性格と書くものは関係なし。
ええもん書けばそれでいいの声が多数派と思われる文学界隈。
私は友達は、文章下手でも性格の優しい人を選ぶ、断然。
突き刺さってくる方々とは程よい距離間でお付き合いしたい。
閑話休題
痛みを抱かずに書いている人はいるのだろうか?
私が書き始めて、まだひとりも欠落感、焦燥感、絶望感、悲哀
そんなものと無縁の書き手さんに会ったことがない気がしている。
そういったものから(一時的でも)卒業したら筆をおいて消えていく
そんな詩書きたちの背中もたくさん見てきた。
私だって似たようなものだ。
考えたら今は特に自分の苦手な仕事で失敗しないことが精いっぱいで
書くことに気持ちや体力を持っていく余裕が微塵もない。
詩も、文章も全然書いてない。
少し前書く人と話していて
「平日仕事があっても一日毎日1時間、作品を(私だったら詩を)書いてる人がどれだけいるのか?実際できそうなのにできている人は少ない」
という話になった。
よくよく考えたら
私は詩を書くこと、文章を書くことであんまり努力をしてきていない。
恥ずかしいことだ。
理由ははっきりわからないけれど
仕事は、努力してきた。
(ふつう、きっと逆だよね。涙)
仕事は大体1時間前から始めてたし、一日1時間は詩を書けないのに、今のテレワークでも自分が出来ないことを早めにPCを立ち上げて(少なくとも30分前には)余裕をもって練習している。
会社が給料以外自分に何にもしてくれないと痛感しているし、残念なことに今の会社にそれほど思い入れがない。
それでも、出来る。している。
ADHDでケアレスミスや入力ミスが多いのをとにかく手が覚えるように反復練習する。
当たり前に迅速にできている人を尻目に自分が歯がゆくなる、凹む。
それでも、内心失敗にいつもビクビクしながらも前のめりで練習する。
責任感だけじゃない。この理由がずっとよくわからなかった。
実際最近つくづく
自分って自分のやりたいことが本当はわかっていない性分だよな。と思う。自分より他者が先行してしまう時がある。若い頃は特に、だ。
(だから人から離れて自分を解放する時間がいる。そう、性格診断でもINFJ提唱者ですわ。)
詩集を出したのも最後に父と会った時
「自分の本を出したい」
それが咄嗟にまず頭に浮かんだし
あんなに大阪引っ越しにこだわっていたのも
「帰りたい」
と言い続けていた母の念がこびりついていたような気が払拭しきれない。
生き抜くために、守ってくれる家族のいない場所でサバイブしていくために
人のニーズを知ること、言葉は信用できないから、気配を察知すること。
そればかり得意になって本来の自分の声を閉じ込め続けて
特に作品において自分の声を喪失してしまったのではないだろうか?
書くことの場所の片隅に席を置いたり置かなかったりして
他者の自意識を放出させる行為を見続けて
(むしろ必要でしょ、当たり前に)
おぞましい
と思ってしまって、心のどっかで
嫌だ!と顔をそむけてしまった自分がいたのではないだろうか?
(自分だってそうなのに。人は駄目で自分はいい。最高にだっさい気持ちが
根底に、ある)
でもそれを放出させなければ死んでしまう心だってあるし
私みたいに結局自分の望みってなんなん?人間。に、なりかねない。
誰よりも透明だったかもしれない自分を覗いた時
人は自分のためだけに生きられるほど強くない。
私が到達したこの答えと
日ごろの自分が考える
「性善説」ではなく「性悪説」
自分も善から生まれてない自覚。
(人は常日頃から抑制能力高くしとかなければすぐ獣に戻る、と思っている)
働かなければだっらだらなるしお風呂だって面倒くさくなるし
人を見下すような人間はこっちだって見下したってイーヴン。
と自分に許可を出す性分。
これらから(どれら?)
自分を死んだように生かさない自分ルールがうっすらと見えてきた。
何のメリットもないような仕事でも努力することで
ちょっとでも誰かの役に立ってる。かも。と思える。
作品書くより
個人的には多くの人の役に立てる気がしている。
そう、自分の書く能力は、信じてない
(なまじっか長く書いてないのよ)
だから文章を誉められてもほとんど木に登らない。
(まぁふだんからなんの誉め言葉でもスルー能力が高いんですが)
それでも、詩を書き続けたい。
自分にとってすぐれた作品を生み出すこと、
時代の流行りに走らず、自作を高めることを諦めないでいたい。
多分仕事ほど働いている今の年齢では時間もかけられないかもしれないけれど。
透明な自分の本音を、書くことで探り続けたい。
書くことはつい閉じがちの私にとって他者と関わることだからだ。
(存在とはもともと透明で個では成立しない)
死んだ女より もっと哀れなのは 忘れられた女です
ローランサンはそう書いた。
私は死ぬときは
作品集が残らなくていいし日記とか全部燃やしてもらいたい。
高見順の詩のようにりんさんの詩のように
ひっそりとあっさりと獣みたいに姿を消したい。
でも私がまだ生きているということは
父も、姉も、母も、
忘れ去られることはない。
先に逝った詩友達の命日も決して忘れたりしない。
私が生きている間、みんなを生かすことが出来る。
痛みを抱くすべての詩を書く人たちへ
あなたがまだ卒業できず痛みを抱き続けて
ただ書いていただけだとしても
ただひとりの他者でもあなたの詩を見つけてくれる日が必ず来る。
来るまで、書き続けて欲しい。
時間がかかりすぎていたら
自分の弱さと格闘して自分の言葉を果てまで探しに行って欲しい。
私もそうしたい。
一緒にやれたら嬉しい。
自分の稚拙な詩なんて誰も読んでいない。
誰の心にも留まらない。
そう思い続けて
それでも書いていた。
初めていただいた手紙に
こう書かれていた。
「わたしのなかのあなたにも、父は、生きております」
あの時から、あの言葉をもらった瞬間から
死ぬまで、書くと決めた。
(2024 8.11 網野杏子)
アンビリーバーボーな薄給で働いているのでw他県の詩の勉強会に行く旅費の積立にさせていただきます。