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つながった日

あまりにも良い日だったので、文字で残しておきたいと思い、久しぶりにnoteを更新する。

かれこれ2ヶ月ぶりくらいだ。日々、考えていることや感じたことをじんわりじんわり温め続けている期間だった。全ては流れの中で生きていて、頭の中も入っては消える(消えるではないな、進むって感じだな)思考を言語化して、ここに留めておく必要がなかったのだ。

毎週、沖縄県北部に行っている。仕事の用件があって北部にいくことが多いが、仕事をする以上に自分のエネルギーを蓄えるために足を運んでいる。海も山も、そこにあるのは本物の自然で。人間の生活と自然が融合して、ある意味特殊な時間の流れ方をしている。今日は、みなぽよとたくさんの話をして気付きがあまりにも多かった。

今まで、あまり話さなかった不思議な話をするから、苦手な方は回れ右して、そのままバックしてほしい。

① 食と体の話

このところ、なんだかずっと身体と心の調子が乱れていた。小さなことでイラッとしたり、疲れることなんて何もしてないのにびっくりするほど疲れていたり。自然のある場所に定期的に行ってエネルギーチャージをしているはずが、全然足りない。

問題は、食にあることに気がついた。

気付いたら、自分が手で触って作った食事を全く食べていなかったのだ。自炊はしているが、冷凍うどんやパスタなど簡単に調理でいるものばかり食べていた。栄養バランスも関係なく。少し前までは、自分で野菜を切って、スープの味付けをして、美味しくなくても食べると身体が元気になるものを食べていたのに、いつの間にか手軽さばかりを重視していた。誰が作ったのか、誰が触ったのか、どこで作られたのか、全くわからない、そんな食生活を過ごしていたのだ。

”食べることで整える”と自分で言っていたのに、すっかり忘れてしまっていたのだ。食べることで元気になる食事もあれば、食べることで疲れてしまう食事もあるとみなぽよは言っていた。まさにその通りだと思った。食べることで体が得ているのは、カロリーだけではなく”気”そのものなのだろう。野菜も肉も魚も、自然の恵であり、自然と自分が生活の中で唯一繋がる瞬間を私は無下にしていたのだ。

丁寧な生活をしよう、なんて世の中の人は言うけれど、それは憧れなんかではなくて、自分を正常に動かすために必要なことなのだ。その根本が食。自分を作るのは、食べるもの全てなのだ。


② 波の話

ここからは感覚的な話が苦手だったり、気持ち悪いと思ってしまう人は本当に読まないでほしい。

小さな頃から、熱を出すと決まって同じ夢をみる。上がったり下がったり、緩やかな揺れもあれば激しい揺れもあり、翻弄される夢だ。これが”波”だと気付いたのが今日。ずっとなんだか分からなかった。子供の頃は、ピアノの白鍵と黒鍵が流れてくる上を走っているのかもしれない、激しい渓流を流れているのかもしれないと思っていたが、正体は”自分自身が波だ”ということだった。

地球上の全ての生きとし生けるものには、波があると感じている(信じている、が正しいのだろうか。)。それぞれ波長があり、波長が近いか遠いかによって、居心地の良さが変わってくる。

ずっと嫌いだった人に久しぶりに会うと安心感を覚えたり、ずっと好きだった人に突然違和感を覚えたり。これは私の波と相手の波が変わっただけの話だったのだ。人は光であり、光のもたらす揺らぎが波となる。

この半年間で、私の波長は大きく変わった。物事に一喜一憂して、短く浅い波が何度も打ち寄せていた自分から、もっと深く、大きな波に変わった。幅が広く、大きな時間という波の中に自分を埋める感覚を手に入れた。周りの人の波に揉まれて、自分の波長を見て見ぬ振りする瞬間が無くなった。スピリチュアル的に言えば「ステージが上がった」ということなのだが、私は上がった訳ではなく自分の波を正常に感じられるようになっただけなのだ。

なぜか。海に行くからだ。

子供の頃、土の上を歩くことが好きだった。祖母の家の近くの畑に踏み入り、きゅうりの収穫をするのが大好きだった。ミミズの出てくる土も、ひっくり返すとダンゴムシのいる石も、みんなみんな大好きだった。嫌なことがあっても、お外で遊ぶだけで心は満たされていた。

大人になるにつれて、いつの間にか、コンクリートの上でしか生活しない日々が続いていた。土と自分が繋がる瞬間なんて、全くない生活だ。食べるものも上述したような、”気”の分からないものだらけ。そんな毎日を過ごしていたら、感覚はどんどん麻痺していく。麻痺しすぎて、もはや何が正常なのか分からない状態だった。

私が正常に戻る方法は、土の上を歩くことだった。自然のビーチを裸足で歩くこと。そうすると、自分と地球が結びつき、自分の呼吸や鼓動がよく聞こえてくる。自分の波を感じられる。自分の意見とか意志だとか、そんな物ではなく、まっさらな自分自身が見えてくるのだ。

正常な自分でまっさらな状態であると、線が見えてくる。偶然出会った人々、なぜか引き寄せられる場所、予期せぬ出来事…。1つ1つは点だけど、意味のないことなんて1つもなくて、全てが線で繋がっている。これは神様の大きな意志であり、運命と言われるものでもあり、抗ったところでモヤモヤが残るだけなのだ。

まだまだ書きたい話(髪の毛の話とか)がたくさんあるが、今日はこれくらいにしておこう。

私の生きている世界は、本当に素晴らしい。


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