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口の中のドーム

私は人の声を聞くとき、その人の姿を透かすように聞いてしまう。

もう少し正確に言えば、声が、骨格や筋肉をレンダリングするように見せてくれる。形がその形ゆえの声の姿をして目の前にある。声が、その声ゆえの宿をより子細に露わにしてみせる。それぞれの尾を噛み合うように原因と結果が運動している。人の声は、面白い。

見えてくる姿といっても、それはあくまでも大づかみの印象程度のことだ。それもあってか、詳らかに聞いていくと声と”姿”にズレや違和感を感じることがある。その原因を探ってみるのも楽しい。舌が少し長いことで声が湿って聞こえたり、歯の一粒一粒が少しずつ大きいことで声が前へ出ていくときの強さが増していたりする。また、聴取は発声のメカニズムに寄与しているが、例えば顔を前から見てどの程度耳が見えるか、音を反射させる耳たぶが大きいかどうか。頭部だけでなく、肩の巻き込みの方向、膝のサスペンション、足の裏の接地の仕方、腕が肩から動かされているか、指が雄弁か、など。私の場合は、左右の胸鎖乳突筋の長さの違いがとりわけ歌うときの発声に影響を与える。

肉と骨からは少し離れるが、身体と声の関係でいうならば、観察と経験から特に女性は声と髪が深い関係にあるように感じる。また、自分自身の身体だけでなく、傍にいる他者の声や身体がどのようにその人の姿を象らせたのか。その表層で興味深くハレーションを起こしていたりする
このあたりのことは、また別途書こうと思う。

「ほかのおかあさんとちがう」

そんな声との対峙、きっかけを覚えている。
保育園の行事にたくさんの”おかあさん”が集っていた。実家が書店だったので、私の子供時代は比較的異なるトーンの声の中にあったと思う。けれど、ある程度近い世代で、しかも母親という役割の女性たちの声をまとめて聞くのは初めてのことだった。自然と比較しながら聞いていた。というか、違いが形を成して見えてきた。

「ほかのおかあさんには、おどうがない」

その頃読んでもらった絵本に「お堂」というものが出てきた。音が滑稽で気に入っていた。「おどう、おどう」と口にしては、その頁の絵をなぞっていた。小さな男の子が手に燭台をもち、広くて天井の高そうな場所にいる。寺の本堂だ。暗がりの中、彼の周囲が炎によってぼうっと明るい、そんな絵だった。でも、その部屋を「お堂」と認識してはおらず、おそらく、暗がりの中で丸く灯る空間を「おどう」なのだと思っていた。
その”まるく灯るおどう”が、うちのおかあさんにはあって、よそのおかあさんにはなかった。...などと書くと他所のお母さんが何か欠けているようで失礼に聞こえるかもしれないが、そうではなく、一人一人がもつ声の特徴の中で、特に際立っているもの、それが私の母の場合は「おどう」だった。たくさんのお母さんたちの中で母の声を聞くまでは、それに気づかなかった。

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違いに気づくのと同時にレンダリングが起こった。
絵本で見たような丸い空洞が声の中から見えてくる。でも球体というよりはドーム状の、底辺が平たくその上が空気を孕んで丸く膨らんでいる、そんな形。もう一歩踏み込んで聞いてみると、そのドームの裏側から一筋に伸びる尖塔のようなものも見えてきた。気づけば私は、まるでドームに包まれて、そこから塔を見上げている。少し大仰な構造物が母の小さな顔の向こうに納まっている。

声の経路も見えてきた。

口腔内でドームの天井に触れて煙のように揺れてくゆった声が、鼻腔を抜けて、尖塔の伸びるのに従って昇り、頭骨を揺らして身体の外へ出ていく。
これ、なんだろう。


そのとき見つけた「おかあさん」は「うた」そのものだった。
頭骨から声が出ていくときの境界は分かるのに、尖塔はどこまでも伸びていくようで、どこまでが母と呼べる存在として定義できる範囲なのか分からなくなった。声/煙の経路から目を離し、聞こえてくる音に耳寄せてみれば、鼻腔が鈴のように軽やかに、金属のシャープさを兼ね備えて鳴っている。遠く上に伸びていくのに、声の現在地は”ここ”=鼻先よ、と私の興味を前面で引き付ける。母が偏在して…いる。

私が、人の声と、それを湛えて震える顔・身体の表面、その向こうと行方をじっと見つめて聞くようになった、そのはじまり。

この録音は、「おかあさんのおどう」に気づくずっと前、1歳半~2歳ごろのものだと思う。母から言葉を習っている音声。あまり鮮明ではないが、柔らかさとシャープな輪郭を持った母の声が聞こえてくる。世界一の声だと思う。途中でギターを弾く母、曲調おかまいなしにヒップホップなノリの娘。フィールドレコーディングとは何かを考えたり、機械の耳=マイクの特性も録音された良い資料なので、これについても別途書こうと思う。

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