王様戦隊キングオージャーはわたしにとってのジェットコースターだった、というお話。
王様戦隊キングオージャーが、好きだ。
先にこれを読む人に伝えておきたいことは、これはわたしの感想であり、あなたの感想ではない。わたしだけの感情だ。
あなたはあなただけの感想と感情を大切にして欲しい。
つまりこれはわたしにとって、たからもののように大切な感想だ、ということ。
王様戦隊キングオージャーが1話が始まった時、その時点でキングオージャーへの初期期待値は、わたしは高かった方だと思う。
というのもわたしは、ファンタジー児童文学原作の、長編ファンタジー映画が元々好きなこどもだったからだ。
ハリーポッターシリーズ、ナルニア国物語、パンズ・ラビリンス、ライラの冒険 黄金の羅針盤、Dr.パルナサスの鏡…など、夢と希望と壮大な戦いが独特な世界観で繰り広げられるファンタジー映画がこどもの頃からだいすきで、王様戦隊キングオージャーはそれまで観ていた戦隊というより、その類に近い気がして、予告から1話までのテンションは爆アゲだった。
更に、驚くべき事にそのテンションは2話になっても3話になっても、そうしていま、49話まで続いたのだ。それぐらい、わたしにとって王様戦隊キングオージャーは面白く、心が躍り続ける物語だった。
キングオージャーは衣装も素晴らしいながら、キャスティングも秀逸だった。
どのキャラクターもファンタジー映画から飛び出してきたきらびやかで豪華な衣装を身にまとい、その上で演技やアクションを行う。その姿は監督の力もあり、毎週さながら映画のように豪華で、息を飲むことも度々あった。
また、他にも理由がある。
王様戦隊キングオージャーはその名の通り、王たちの物語だ。王が纏うに相応しい、きらびやか衣装、そしてそれを惹き上げる装飾の数々。プレミアムバンダイで作中の衣装のレプリカが一般人も購入できるようになった際、「五十嵐一輝のTシャツよりも高い!!!!!!!」「王様が身につけているものより五十嵐一輝のズボンの方が高い……」とTLはちょっとした騒ぎになったのだ。
その中で、そのアイテムを購入し、キングオージャーに貢献しようとする御方が居た。
https://twitter.com/TakaMinaCalpis/status/1648365878130638849
脚本家の、高野水登先生である。
彼はキングオージャーの脚本を書いて得た給料でキングオージャーのグッズを自ら購入するという、様子のおかしい永久機関を完成させていた。
明らかなその様子のおかしいオタクムーブに、わたしは一瞬で
「この脚本家、推せるな……」
とこころを掴まれた。様子のおかしいオタクが好きなオタクなので。
もちろんすべてのオタクがこうでなくていい、たまにこういうのがいるから、良いのだ。
実はわたしは普段、脚本家のSNSの動向は極力追わないようにしている。インタビューは作品が終わってから読みたい、そういうタイプだ。
作品が終わってから改めて制作陣のインタビューやオーディオコメントを楽しみ、あの時こういう意図があったのか、と納得して、もう一度楽しむ。
そういう答え合わせのような感覚が好きだった。答えといってもこんな一端のオタクの初見の感想が当たる事はほとんど無いのだが、先に知っていれば「この脚本家や監督、プロデューサーはこういう傾向だからこのシーンは……」と、同じような感想しか出てこなくなる。
それもそれで楽しいが、せっかく現行で観れる作品は人生で数少ない。
わたし自身それなら何も知らず、自分だけの感想を得たくて、意識的にあまり見ないように努めていた。
なので高野先生が度々スペースを開いて作品の裏話をしている事は知っていたが、すべては追っていない。たまにどうしても聞きたい!いま!という勢いと、時間と余裕のある時だけに限って見るようにしていた。
それでも充分、王様戦隊キングオージャーは面白く感じたし、なにより、楽しかった。
王様戦隊キングオージャーで特に楽しい!と感じたのは、映画王様戦隊キングオージャー アドベンチャーが上映された時だ。
こちらは所謂夏映画と呼ばれるもので、当時放送中の仮面ライダーギーツの映画と共に上映された。時間の配分は当然最終回を迎える直前であり、例年通りギーツの方の割合が長かった。毎年そうであったので、こちらもそのつもりで見に行ったし、実際ギーツが60分、キングオージャーは32分だった。本編の間の物語と聞いたので、劇場公開してすぐに観にいった。
すざましかった、の一言だった。
上堀内佳寿也監督の映像美やアクションは然ることながら、32分とは思えない物語のスケール差、その短時間にピッタリと収まる行間、そして何より、翌週のキングオージャー本編を観た時、「映画を観ていなくても物語が違和感なく繋がり、すぐに見なくてもテレビ本編を楽しめる」ことに感動したのを覚えている。
その上で本来の劇場版の尺で観たい、そう思わせてくれる最高の映画だったが、更にその上、後日東映から完全版の配信が行われた。うそでしょ!?となりながら大喜びで配信を購入し、スケールが更に増大された劇場版キングオージャーを堪能した。
よくぞあの32分に詰め込んだなこの内容を……と改めて制作陣の手腕に感激しながら、わたしにとって王様戦隊キングオージャーとは、人生に必要な遊園地であり、その中でも特にお気に入りのジェットコースターという遊具なのだと思った。
キングオージャーは、『面白い』もあるのだが、個人的にはそれ以上に観ていて『楽しい』作品なのだ。
とても丁寧にキャラクターたちのことばや行動に行間を持たせ、積み重ねて物語が造られているので、次回予告を見て「多分こうなるのかな…」て予想がつく時があっても(大抵はつかないが)いざ本編見たら「あっ予想外れた…、…と思ったらやっぱりそうなんかい!?」など、またどれだけ悲劇が起こっても、王たちが倒れても、きっと彼らはこの悲劇を収めてくれる、立ち上がってくれる。
そういう、本当に心から信じられる魅力的なキャラクターたち。そういうところを含め、王様戦隊キングオージャーを見ていた一年は『安全が約束されたジェットコースターに乗ってるきもち』で居ることができた1年間だった。
わたしがキングオージャー見てる時のきもちに近い感覚は、すごいスピードで駆け抜ける機体にのり悲鳴をあげてもでも最後にはちゃんと安全にゴールに着地する事が出来るから降りた後「楽しかった!また乗りたい!」となる、楽しい楽しい、アトラクションが、わたしにとっての王様戦隊キングオージャーなのだ。
映画だけではなく、TV本編の「第36話 ヒメノのお見合い大作戦」では、特にそう感じた。
この話はタイトル通りヒメノさまがお見合いをする話なのだが、次回予告の動画には見たことのない美男子がヒメノさまに迫る姿が映っている。
その姿を見て、「本当は25歳だが、特殊メイクをして初老の男性の姿をしている」という設定が初期にでたヒメノさまの側近であるセバスチャンではないか、とわたしは思ったし、実際わたし以外にそうなのでは?と予想する視聴者は多かった。
しかし放送当日、その美男子は全く別の名前を名乗り、素性と、ヒメノさまとの出会いまで明かした。それを見てわたしはセバスチャンではなく、ゲストキャラか…と素直に受け入れた所、実際その美男子はやはりセバスチャンであったこと、その素性とヒメノさまとの出会いは真実であったことが明かされた。
その時わたしが感じたのは、紛れもない爽快感だった。
違っていた!と思ったら合ってた!でも更に一ひねり加えられていた!と、そのことがたまらなく心地よく、楽しかった。
そう、キングオージャーは、ともかくキャラの細かい積み重ねが丁寧で、好感的な作品だった。
他のシーンでも、手前には二人分の食事しか用意できなかったセバスチャンの皿を、一皿だけ受け取り、一人分でも腹が満たされるかわからない量の食事を二人で分け合うギラとヤンマの姿を手前で別のキャラクターが話を進めている間に画面の端に映したりと
大事なシーンでギラやヤンマが体を張って民を守ろうとする姿に、コツコツと説得力を持たせることがなんと上手い作品なのだろうと舌を巻いたのを強く覚えている。
キングオージャーはどのキャラクターも魅力的だが、特に女性キャラクターの描き方も多様多彩で本当にだいすきだった。
個人的にリタさまを過剰を女性としても男性としても扱わないまま最後までどっちつかずで、それについても「どっちなんだよ」と答えを求める人間も現れず、38話のアイドル回「不動のアイドルデビュー」でもリタさまはかわいい女の子アイドルとカッコイイ男の子アイドルを着こなし、その二面性にも作中で周りは一切触れないところが、わたしにはとても好感的に見えた。
ヒメノさまを強くうつくしく自立した女性として描き、先述したお見合い回でも他のキャラクターと恋や愛やの方向にいくらでも展開できそうだったものを、その方向性は描かない。しかし、同じ作品に登場するスズメさまが第5話「王を継ぐ者たち」で幼くなった精神状態で「愛するひとのお嫁さんになりたかった」と語る回は、わたしの胸にグッと突き刺さった。
この幼い頃に、愛するひとのお嫁さんになる事が夢だったというのは、正直この「結婚することもしないことも選べる時代」に、ピンク=女の子の色というのはもう古い!という声を上げすぎて元々ピンク好きな女性が居づらくなってしまうことと同じで、逆にそういう夢を持つ人達が口にしづらい夢のひとつになってしまっているのではないか、とわたしは感じていた。
だからこそ今、リタさまやヒメノさまに並んで、「愛するひとのお嫁さんになりたかった」という夢を持ち、一度はその諦めた夢が叶ったスズメさまの姿を最終回まで描いてくれたキングオージャーの多様性を愛さずにはいられないのだ。
これからもずっとここで遊んで居たい…、と何度も思った。けれども物語にはいつか、終わりが来る。FLTの告知を見れば悲しいほど、分からずにはいられない。
しかしキングオージャーの最終回は三部作として3話に分けられ、OPはなし、49話に至ってはCMすら挟まれなかった。スポンサーであるCM、番宣を流さないこと、それは恐らくトップの人たちがあちこちに交渉をした結果だろう。
その僅かな一分一秒すら惜しみ、誠心誠意、全力で最終回を今まで丁寧に積み上げてきた行間を含んで魂をかけて作成してくれている制作陣の熱量は充分過ぎるほどに伝わってきて、こっちも「終わらないで」より「この作品の完成が楽しみ」という想いが強まり、2/25、とうとう最終回を迎えた日曜日の朝、開幕1分で泣いてから30分泣きっぱなしだったから、物語の最後を見届けたその時、わたしは、確かに心地よいきもちで胸が満たされていた。
別れは確かに寂しいけれども、でもまたいつか会える、という爽やかな寂しさに包まれていたからだ。
うれしかった、この物語を最後まで楽しんで見届けられたことが。
王様戦隊キングオージャーの最終回には、こんなセリフがある。
「好きなところは受け入れて 嫌いなところはそっとしておく 違う者同士、共に生きればいい」
この言葉を、この考え方を、最後までずっと伝えようとしたこの作品を、最初から最後までずっと好きで居ることができたことが、たまらなくわたしはうれしかったのだ。
この作品が終わった後もこれから先もずっと、この作品を好きで居れるであろう確信が。
全てのキャスト、スーツアクター、エキストラの皆様、プロデューサー、小道具から大道具、音響、上げきれない一人一人の制作陣がひとつの歯車となり、それは1人として欠けていれば完成しなかった王様戦隊キングオージャーに関わった関係者全ての方々にこころから感謝いたします。
その中でも、わたしは、王様戦隊キングオージャーの中に散りばめられた名乗り口上だったり、愛のことばだったり、そういうものに強くこころを惹き付けられた1年だったので、脚本家である高野水登先生には特に感謝の言葉を述べたい。
先述した通り、あまり制作陣のことばをリアルタイムで見ようとしなかったわたしにとって、初めて現行の作品で本当にたくさんの制作陣の言葉に触れ、一人一人の力があるからこんな素晴らしい作品が完成するのだということをわたしに教えてくれたのが、王様戦隊キングオージャーであり、そしてそのキッカケを与えてくれたのが、高野水登先生でした。
おかげで、わたしは今まで以上に多くのひとを好きになれました。
高野水登先生 すきです だいすきです 高野水登先生が生み出す多様性豊かで魅力的なキャラクターが、そのキャラクターが紡ぐことばや物語が、だいすきでした。
王様戦隊キングオージャーという、うつくしくて、愛と勇気と、壮大な戦いと、多様性を伝える最高の物語を紡いでくださり、本当にありがとうございました。
この1年間、わたしの胸の中の宝箱はたからものでいっぱいになりました。
高野先生を始めとし、王様戦隊キングオージャーに関わった全ての人たちに多々の幸福が訪れますように。
これから先紡がれるGロッソ公演、Vシネ、そしてFLT すべてが誰1人欠けず、大団円で幕を下ろすこと、そうして降りた幕の裏側で物語がずっと続いていくことを祈ります。
1年間、うつくしい物語をありがとうございました。
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