見出し画像

第3幕『月のあかりと流星と』

 大学院の学生寮に戻ると、シェアスペースには見知った青年の姿があった。片手に万年筆、もう片方の手には論文。ここまではわかる、だいたいいつものことだ。けど、今回は不可解なことがだいぶ多くて。つい、足を止めてしまった。
「——なにやってんの? 池内くん」
「見てのとおりだけど」
「いや、見て理解できなかったから訊いてるんだけど」
 とりあえず、テーブルを陣取っている彼の対面に腰を下ろす。ついでに重たい鞄も下ろす。ひと息ついて、散乱するコピー用紙をざっと一瞥する。……やっぱり状況がわかんないので、順番に尋ねていくことにする。
「いま読んでるそれ、芒夜市天文台から出てた論文だよね。ちょっと前だけど、学術誌に載ってた」
「そう」
「そうかぁ。そんで——」
 ちらり、斜め後方を振り返る。紙に埋もれた小型の印刷機が、がちゃがちゃと音を立てながらコピー用紙を吐き出しているようすが目に入る。
「あっちでがーがー言ってるプリンターが必死で印刷してるの、こないだ池内くんが書いてた論文、だよね? あたしが英訳手伝ったやつ」
「それがなにか」
 うん、あのねぇ。すぅ、はぁ。落ち着けー、あたし。
「いや池内くん!? きみ芒夜の天文台にも応募してたよね!? なんなら第一志望だって言ってなかった!?」
「そうだけど」
 なにか問題でも、と言わんばかりに、彼は少しだけ首を傾げる。なんでだよ。首を傾げたいのはこっちなんだよ。
 いま、あたしが鞄から引っ張り出したのが、くだんの天文台の研究チームが論文を載せた学術誌だ。目印にふせんも貼ってあるから、ぱらっと開いて。
「ひととおり読んだよ、どっちの論文も。読んだ、けどさぁ」
 学術誌を、テーブルに置く。ばんっ、と思ったより大きな音がしてしまったけど、ごめん、いまはそれどころじゃない。
「きみの論文! バッチバチに反論じゃん! これもう先方の教授たちが出した結論に対する完璧な反証じゃん!!」
「そうだね」
 あたしの大声に応じる彼の声は、いつものように、どこまでも落ち着き払っている。なんだ、なんなんだ、この、広大な湖に石でも投げてるみたいな虚しさは。なんなら、ほんの数秒でも波紋が残るだけ、水面に石を投じるほうが楽しいかもしれない。
「……え、なに? あたしの感覚がおかしいの? あたし、自分が師事したい相手のつくった翻訳文に『解釈違いです!』なんて口が裂けても言わないし言えないけど!?」
 と、ようやく彼がまともにこちらを向いた。即座に口を開いて曰く。
「相原の出した例と今回のことは、同列に語るには無理があるね」
 もう、この時点で、彼がこれから述べるだろう内容が予測できてしまった。あーもうやだ、あたしの出した例えが適切じゃなかった。ぜったい論破される。
「相原たちがやってる翻訳には、唯一絶対の正解は存在しない。対して、僕らの研究分野においては、真実はひとつしかない。あと相原の場合、自分から見て解釈違いな翻訳をする相手を師とはしないほうが——」
「例え話だよ! あたしだって自分と解釈の一致しない相手を師と仰ぐ気はないよ!!」
 ぐで、っとテーブルに突っ伏す。なんか、ものすごく疲れた。テーブルに伏せたまま、目だけで彼を見上げて問う。
「池内くんさぁ、怖いものとかないの……?」
「怖いものか。真理がうやむやにされること、かな」
「はぁー……」
 もはや悪態のひとつも出てこないが、まだ聞きたいことが聞けていない。あーもう、と口のなかだけでぼやいて、かろうじて身体を起こす。頬杖つくのくらい許してくれ、そうでもしないと崩れ落ちそうだ。
「それで? この封筒、『芒夜市天文台』って書いてあるように見えるんだけど——」
 ついでに言うなら、ただの茶封筒とかではない。白い封筒に藍色のインクで、芒夜市天文台のロゴと所在地が刷ってある。なんなら宛名もすでに池内くんではない誰かの文字で書いてあって、彼の筆跡は最後の最後に添えられた「行」を二重線で消して「御中」に書き換えた部分だけ……と、いうふうに、見えるのだが。
「——あたしの見間違い、かなぁ?」
「いや。相原の観測は正しいよ」
「なんで!?」
 また突っ伏してしまった。勢いつきすぎておでこぶつけた。痛い。額を押さえながら顔を上げると、彼はあたしを真っ向から見て、まず瞬きをひとつ。それから、どこまでも普段どおりの、平坦ですらある語り口で尋ねてくる。
「いまの『なんで』は、どの部分に対する疑問?」
「あー! はい! ゴメンナサイ! いまの質問だときみにぶつけるにしてはだいぶ言葉が足りませんでした!」
 でも、あくまで、「きみにぶつけるにしては」だからな。
 寮生の、とくに後輩たちが、あたしたちを遠巻きに眺めている気配がする。ええい散れ散れ。なんか誤解されてるみたいだけど、相原と池内くんの会話は漫才じゃないんだぞ。深々、ため息をひとつ。
「はい、きみにもわかるように言い直します。——この流れで、なんで、よりによって、くだんの芒夜市天文台に応募書類を送ることになってんの!?」
「先方からの打診で」
「……ちょっと待って? 本気でわけわかんないのはあたしの頭が足りないからなのかなぁ?」
「その自己評価はあまりにも不当に低いと思う」
「誰のせいだよ」
 そこできょとんとしないでほしいんだけど、ねぇ。だから漫才扱いされるんだってば。がんがんと痛む頭を、片手で押さえながら。
「いや、だって、だってさぁ? 先方の視点に立つなら、自分たちの研究成果を完全論破した相手に向かって『ウチに来てみない?』って言ってることになるよね?」
「そのとおりだけど」
 わずかに困惑の滲んだ声、の直後、彼がぴたりと動きを止めた。固まっているように見えるけど、これ知ってる、全力で思考してるときの池内くんだ。かくして数秒ののち、
「——ああ、そういうことか」
「……なに、どういうこと?」
「説明する」
 彼はそう告げ、手にしていた論文と万年筆をそっと置き。
「ことの経緯は、相原がいまさっき言ったとおりだよ」
「え……っと? 先方はほんとに、自分たちの研究を論文ひとつで木っ端微塵にした学生を採る気があるってこと?」
「……相原、その言い方もう少しなんとかならなかった?」
 いやだ。きみには突っ込まれたくない。あたしの些細な意地を、池内くんは小さなため息ひとつで片づけてしまう。
「まあ、実際に採用が決まるかどうかはこの先の選考しだいだけど」
「……。これ、なんで、ってあたしが訊いて、池内くん答えられる?」
「『気に入った』らしい」
「はい?」
 わかんない、天文学者たちの考えることほんとわかんない。いや、不当なレッテル貼りかなこれ。ひとまずは、説明の続きを待つことにする。
「まず、僕が求人に応募しているのは先方も把握していたらしく」
「はい」
「書類選考の途中で、僕の出した論文が先方の目に触れたようで」
「はぁ」
「『この学生おもしろいね』となったそうで」
「……はぁ」
「で、『正規職員の求人と採用試験の要項を送るから、ひととおり目を通したうえで、興味があるなら様式に沿って作成した応募書類を返送してくれ』とのことで」
「はぁー……そーゆーことかぁー……」
 相手が誰だろうと臆することなく、「正確な事実かどうか」を問えるのは、たしかに真理の追究者としてはこれ以上ない資質、なのかもしれない、けど。それにしても、物好きな天文台があったものである。あたしが知らないだけで、天文学者さん、ってこういうかんじなんだろうか? それはないか、ないな、やっぱ不当なレッテル貼りだな。そう思い直しつつ、ふと脳裏をよぎった記憶があった。
「——あー、そっか。そういえば池内くんが前に履歴書送ってたやつ、芒夜の、有期契約職員での募集だったよねぇ」
「よく見てるね」
「まあねー。やっぱ研究者の道って険しいんだなって思ったから、印象に残っててさ」
 気が抜けてしまったのか、テーブルに伏せた上体がやたら重い。はぁー、と大きく息を吐いて、脱力。ぐでー。池内くんが、自分の資料を少し避ける気配。
「……はぁ。あたしもぼちぼち考えはじめなきゃなぁー、卒業後の進路」
「相原のことだから、なにかしらは考えてるだろうと思ってたけど」
「そりゃなんにも考えてなくはないけどさぁー。実際やっぱ厳しいじゃん、研究者」
 ああ、だか、まあ、だか、曖昧な相槌がひとつ。そのあと数秒の間があって、
「相原なら、なんとかなると思うよ」
「……。え、なに、なんか確証でもあるの?」
「ない」
 降ってきたのは、思っていたのと真逆の言葉で。今度はあたしが固まってしまった。ぎぎぎ、と音がしそうなぎこちなさで、彼のほうへ顔を向ける。月明かりみたいな、静かな双眸がこちらを見ていた。
「未来を確約できる材料は持ち合わせがないけど、これまでのことなら知ってる」
「……たとえば?」
「たとえば物事の捉え方、とくに、困難に対する柔軟な向き合い方。思考する、思考し続ける力。周囲への働きかけ、相手にあわせた対応を自然と取れるところ。なかでも、強制力に頼らず、相互の納得に基づいて協力を得られるあたりは僕の持ち得ない資質だし」
「へぇー……そこ自覚あったんだねぇ」
「茶化すな」
「ゴメンナサイ」
 はい、いまのはあきらかにあたしが悪かった。頭を下げようとしたら、そこまではしなくていい、と手で遮られた。
「あとは、相原がほんとうにその道に進みたいと思えるかどうかが分岐点だと見立ててる。あくまでも個人の見解だけど」
「そう、かぁ」
「……なにか引っかかる?」
「んーん。どっちかっていうと、ほんとよく見てるんだなぁー、ってびっくりしてた」
 ひとに興味なさそうなのにね。というのは、さすがに失礼がすぎるから言わないとしても。なにかお礼のひとつくらい、と思って考えて、ああ、そうだ、妙に鞄が重いのには理由があるんだった。ことん、とテーブルに缶コーヒーをひとつ。
「あげるよ。駅の自販機で当たったやつ。もう冷めてるけど」
「……相原、コーヒー飲めるはずじゃ」
「うん、飲めるよー。でも、コーヒーは1日に1杯までって決めてるんだよねぇ。ま、進路相談のお礼ってことで受け取っといてくれる?」
「そういうことなら。ありがとう」
「うむ、もらってくれて助かるのだよ」
 たしか池内くん、ミルク入りだってわかってて飲むぶんにはいけたはず、だよね。
 高校の自販機で売ってた無糖が、砂糖は入ってないけどミルクは入ってる、などというトラップ案件で、あれをうっかり知らずに飲んでしまった池内くんはだいぶ顔が青かったんだけど。そのときに、あらかじめ知っていればミルク入りは飲める、って言ってたから。
「ミルクは入っちゃってるけど無糖なので許して」
「わかった。事前情報ありがとう、助かる」
「あい、こちらこそ——で手打ちにしよーね、これエンドレスのありがとうループになる予感がする」
「了解」
「うぃー」
 ころころ笑って、そっと席を立つ。
「じゃーねー、お先におやすみ。採用、決まるといいね」
「ああ。やれるかぎりのことはやってみる」
「応援してるー。いっそのことバリバリ最前線の研究者になって、あたしに翻訳とかの依頼ちょーだいな。なんと相原さん、通訳もできるんだぜー?」
「……善処する、としか言えないんだけど、それ」
「あっははー、ごめん、冗談だよ。あたしのことはいいの、きみの人生でしょーが」
 ひらり、手を振ったら、あとは振り向かない。いつのまにか増えていたギャラリーを軽く呼び寄せ、食堂のほうへ。晩ごはんまだだし、あたしはともかくこれ以上彼の邪魔はしないでほしいし。
 
  
 だって。
 あたしはもう、じゅうぶんすぎるくらい、きみに助けてもらってるんだからさ。


 いつか見た、白地に藍の封筒。端正な筆跡は、よく知っている、池内くんのものだ。封を切る。入っていたのは、推薦状の写しと、採用試験の要項、それから、短い手紙。池内くんの職場では翻訳や通訳ができる人員を募っていて、彼はあたしを推薦したいのだと。ああ、もう、ほんとに。律儀だなぁ、きみは。
 
 じゅうぶんだ、って、いうのに、さぁ。


次の章はこちら

前の章はこちら


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?