じゃないほうのあめ
わたしは、「じゃないほうのあめ」だ。
ちゃんと言う。「飴ちゃんじゃないほうのあめ」だと。
飴ちゃんという、とても可愛らしい子がミスiDにエントリーしている。ビジュアルも世界観もバッチリで、大人受けしそうで、わたしとは正反対の飴ちゃんがこの世界には存在している。
実は去年、「あめ」ではない名前でエントリーシートした。
こういう事態が怖かった。つまり自分が「じゃないほう」になるのが怖かった。
しかし、やはりしっくりくるのは「あめ」なので今年は「あめ」で出た。そこに後悔はない。なぜなら、わたしは前からあめだったから。あめでいい。名前の奇抜さで勝負はしていない。エゴサもできなくていい。できないほうがいい。
いいはず、なのにわたしはぼんやりとはっきりと「わたしって、じゃないなあ」と思っている。
なぜ、じゃないのか?説明は結構簡単。
わたしはそもそも、じゃなくないほうのあめとして生きていないからだ。
そんなの別に、誰も現れなくても、世界でわたしはひとりだとしても、いつだって「じゃない」ままだってわかる。
個別指導の塾講師をしていたとき、自分で言うのも何だけど、わたしはそれなりに指名があった。
そしてわたしは、自分の需要がわかっていた。
講師には2種類いる。
自分の世界に引き込む人と、相手の世界に入り込む人。
簡単な話、わたしは後者。
講師のときだけではない。わたしはいつでも後者を選んでいる。
前者はいわゆる、カリスマ性とかスター性ってやつ。
この人にならついていきたい、と思うやつ。
飴ちゃんは、どう考えてもこっち。
そしてわたしは、そうじゃない。
前者の講師は、塾を変えても家庭教師になってもついていくような根強いファンができる。その一方で、合わない生徒は全く合わない。
そういう子を、教えるのがわたしだった。だから正確に言えばわたしへの指名じゃなかった。消極的、というか。誰でもよかったのだと思う。わたしじゃなくても。
でも、そこにはわたししかいなかった。
はじめは偶然だ。偶然が重なり、わたしはだんだんと、じゃないほうとして存在することにした。
じゃなくていいやって思っていない。じゃなくいようって思っている。積極的に。
わたし、いつまでだってみんなとDMするし、文通もしたいし通話もする。それは、じゃないから。
じゃなくならないように、どうか。ずっとここにいます。
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