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投げる

お寺や神社で気になる人

 お寺や神社に行っていると時に気になる人に出くわす。

 それは「お賽銭を投げる人」である。

 それが元旦の超人気寺社仏閣で賽銭箱が見えない状況ならわかるのだが人もまばらで投げ入れる必要がないのにチャリンとわざと音がするように"投げる"人がいる。
 もちろん賽銭箱は高さがあるからお金を入れるとどうしても落下する音はしてしまうが、そうではなく、『投げる』のだ。
 そんな人を見てみると案外高齢の方だったりする。
 三十代後半の私はそっとなるべく音がしないようにお賽銭を「入れて」いる。

 私は「仏様や神様に供えるものを投げるのは良くない」し「そもそもお金を投げるのはいかがなものか」と思っていた。

 しかし世の中案外物を投げる人が多いと気づいた。

 その現場はスーパーである。

 お惣菜や食材をカゴにボンと投げる奥様方が結構な割合でいるのである。
 その野菜、痛みませんか?
 せっかくサクサクに揚げられてるコロッケ投げちゃうんですか? 

 しかし人の振り見て我が振り直せ。
 私にも人から見ると信じられない行動をしている部分があるのだろうから気をつけようと思うのだった。


岩手弁「投げる」 関西弁「ほかす」

 それと同時に気づいたことがある。

 私は岩手県の出身なのだが、この地域には「投げる」という方言がある。調べたところ北海道、東北地方の広い地域で使われる方言のようだ。
 この言葉は標準語と同じ「物を投げる」の他に「ゴミを捨てる」の意味がある。
 他所の地域から来た人が「これ投げといて」とゴミを渡されてびっくりする、というのは岩手県では鉄板の笑い話である。高校の時東京出身の先生も言っていた。
 これは比較的よく聞く方言で、一時期有名になった幻の岩手弁「じぇじぇじぇ」(じゃじゃじゃ)よりだいぶ良く聞く方言だ。
 特に年配の方は使っていたように記憶している。

 もしかすると私が「投げる」にいい印象を持たないのはこの方言にも理由があるのかもしれない。

 一方で今住んでいる関西ではゴミを捨てることを「ほかす」という。
 これは漢字だと「放す」「放下す」と表記して意味は「投げる」「投げ捨てる」などと同義らしいので岩手の「投げる」と非常に近い言葉だ。
 古語での意味も調べてようと手持ちの旺文社古語辞典を引いてみたところ意味は「捨てる」だったが用例がなんと、
“「海にー・されしは」〈八犬伝〉”
 と書かれていた。

 ちょっと待て。
 八犬伝の著者は江戸の曲亭馬琴でしょ?
 Wikipediaを調べてみたら馬琴は深川生まれである。旅行で関西へ行ったことはあったようだがその程度のようだ。
 つまり「ほかす」は八犬伝が書かれていた文化11年(1814年)から天保13年(1842年)までは江戸でも「捨てる」という意味で使われていたようである。
 1842年は2021年の今からだと179年前。
 明治時代が始まったのが1868年。
 今大河ドラマになっている渋沢栄一が生まれたのが1840年のことである。
 つい最近まで江戸の人も「捨てる」を「ほかす」と言っていたようだ。
 もしかしたら古い音源を聴けば江戸落語でも使われているのかもしれない。


そういう考えもあるのか

 さて、だいぶ話が脱線したが「お賽銭を投げる」に話を戻そう。
 「賽銭」「投げる」でググってみると興味深い情報が目についた。


各地の古くからの祭事などでは、お金が人の身代わりとして「ケガレ」を引き受ける風習が残っているという。「お金はケガレの吸引装置」(新谷教授)というわけだ。
「ケガレたものを投げ捨てることで、投げた本人ははらえ清められる。きれいな心身で神の前に立つことができる」(新谷教授)。
《NIKKEI STYLE》


 そういえば地域の差はあれど日本はよく物を投げる。
 塩、豆、お菓子、餅……。塩と豆は厄払いや魔除けの意味合いだがお菓子や餅はお祝い事で投げる(撒く)。コロナ前には成田山新勝寺をはじめとする多くの節分会で参拝客に向かって魔除けである豆を投げていた。
 物を投げるというのは決して悪い意味だけではなく、むしろ祓いのプラスの意味もあったということは納得だ。
 考えてみれは餅やお菓子の食べ物を撒くのもどうかと思うが、それをあえて投げるというのはちょっとテンションが上がって非日常感がありお祝い事として楽しいのかもしれない。


神社本庁曰く

 しかしである。
 日本最大の神道系宗教団体である神社本庁のサイトには以下のように書かれていた。

お賽銭箱にお金を投げ入れるところをよく見かけますが、お供物を投げてお供えすることには、土地の神様に対するお供えや、祓いの意味があるともいわれています。しかし、自らの真心の表現としてお供えすることなので、箱に投げ入れる際には丁重な動作を心掛けたいものです。《神社本庁》

 結論としてお賽銭を投げることにも意味があるけど、丁寧にしてもいい。
 むしろ上記の文章を読むに、「お賽銭は丁寧に入れてほしい」というのが神社の本心のように感じられます。

 とても日本らしい文章の書き方です。

(これは憶測だが、投げ入れることによってお金に傷が入ったりなどの実害があって上のような書き方をしているのかもしれない)


住職曰く

 では仏教では「賽銭を投げる」ことについてどのように考えているのだろうか。
 「賽銭」は神社でもお寺でも共通の単語なのだがお寺側の意見は検索では見つけられなかった。
 仏教の考え方からすると仏様への供物を投げるのは良しとしなそうな気がする。

 そこで思い出したことがある。
 先日夫の親族の法事でお寺に伺った時住職が言っていた事だ。(この法事のために数珠を直さねばならなかったのだ)
 夫の家系は元々僧侶の家系でこのお寺の以前の住職が夫の親族なのである。なので普通の檀家さんに話す話ではないことを前置きとする。

 とある檀家さんが「お供えに持ってきたお菓子をぞんざいに渡してくるから腹が立ってしまった」「“お不動さんにお供えお願いします”と丁寧に渡してくれればこちらも気持ちよく受け取れるのに」「“供えてやっている”という気持ちなのだろうか」とぼやいてらしたのだ。

 やはりお賽銭もお供物も丁寧に供える方がいいのではないか、少なくとも今の日本人は「投げる」=「祓い」の概念は一般的ではないのではなかろうか。
 お賽銭を投げている人を見かけたら、「あの人は粋な人なんだな」くらいに思っておこうと思う。

*写真は高野山金剛院毘沙門天。写真だと右脇侍が歓喜天っぽいけど実際には愛染明王が祀られています。


*追記。(2021.09.25)
 お賽銭投げ入れ派のフォロワーさんから情報いただきました。
 その方の出身地域は神道が身近な地域とのこと。そのような地域の差もあるのかもしれません。
 情報ありがとうございました!

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