ナザレのイエスが白人で描かれても誰も文句は言わないのに、黒人エルフは許されない。
『黒いアテナ』(1987)を鵜呑みにする訳ではないが、科学的根拠と照らし合わせても史的イエスは決して白人ではなさそうだ。にもかかわらず、聖画に描かれる人々はみな「美しい」白人の姿をしている。私はそれを批難するつもりはないし、同時代の表現を狩る姿勢には反対の立場だ。
さて、「黒人エルフ」に対する批判の声に、「トールキンは、支配者層、無意識の差別者、特権者層としてエルフを描いた。これは白人のメタファである。なので、黒人が演じることは作品への冒涜である(大意)」というものがあった。面白い意見だ。『グリーンブック』(2018)の主人公が白人だったら成立しないし、『ジョーカー』(2019)の主人公が黒人だったら成立しないのと同列にこれを語ろうとしている。
まず、トールキンの世界が白人至上主義的、西洋的、キリスト教的な価値観に基づいているというのは、(大方、宮崎駿でも引用元にしているのだろうが、)徹底的に誤っている。
「永遠の命を持つ、人間の上位存在としての、優れたエルフ」という見え方は、ことトールキン世界においては、ホビットの視点で語られる『指輪物語』でのみ成立するものだ。『力の指輪』の原案にあたる『シルマリルの物語』を読んでもなお、エルフが道徳的に優位であると思うことが可能だろうか(反語表現)。
トールキンは西欧ファンタジーの祖と言われがちだが、他の作品群と比べ異教的だというのが通説である。エルフの持つ永遠の命とは、キリスト教的な神の恩寵ではなく、現世という檻に囚われることの現れである。定命の人間こそ選ばれし種族であり、現世からの解脱が可能である……というのが、トールキンの独自性であり、哲学だ。このあたりは、『トールキン神話の世界』(1994)に詳しいので、トールキンの意志なるものを代弁するのであれば読むべきだろう。
結局の所、何が言いたいかと言うと、「私はそれが好きではない」に、「作者の意図」だのなんだのと、理由をつけてそれらしく語るのは、醜悪ではないか、ということだ。
「エルフが白人至上主義のメタファで〜」などと、どこぞの岡田氏のような「解説」を鵜呑みにしてひけらかすのは、根拠に基づいた語りではなく、語りやすい根拠探しの成果である。
日本が貧乏になったので、現代のノブレス・オブリージュであるポリティカル・コレクトネスが批判に晒されている。確かに、特にエンタメにおいては「ポリコレ棒」と揶揄されるような暴力的な行為も無きにしもあらずだが、誰も彼も、自ら手にするべき棒を精査しなければ、語るに落ちる。
おわり。