見出し画像

カンテヒョンくんとのミーグリから2日経った結果、ハイパーオタクポエムを書く

ミーグリについて、落ち着いたらまた書きます〜!とか言ってましたが、多分落ち着かないし落ち着いた頃にはもう書く気とかないと思うんで、まだ落ち着かないまま改めてミーグリというかカンテヒョンくんのことを書いていいだろうか。

あれはなんだったのか、と改めて考えている。眼前で見たカンテヒョンくんのことだ。
即書いたnoteには、キレイだったと書かれている。それはそうで、今でも思い出すと手が震える程度にはキレイだった。
はたして人だったのかも怪しく、あれは九尾の狐が化けているのですと言われたらそれはそうかもなという類のものだった。

顔が小さいだとか背が高いだとか目が大きいだとか、そういった「特徴」を述べるのもいいが、結局のところ人の美しさは造型すべての総合芸術だろう。

美しさが衝撃だったゆえに、その美しさが日ごとに肥大化しているような気がする。
夢や幻ではなかったと言い切れる。自分の夢想は自分の脳内の創作であり、自分の創作ではあれほどキレイな人は描けなかった。

美というのは衝動の根源なんだなあと思った。今ならゼウスが黄金の雨になったのはダナエの美貌への礼賛であったのだと感覚的に理解ができる。

自分の理想は活字の中にしかないと思っていた。活字を読んで夢想する人が1番美しいのではないかと。
でもカンテヒョンくんは易々とその想像を超えていった。結局人の想像は実体験を上回ることができないのかもしれない。
想像の限界を視覚的に上回ろうとするのが絵画や彫刻なわけだが、現実に生きてる人間にそれを超えられたらお手上げでしかない。私が芸術家なら筆を折っていたかもしれない。危なかった。

まあなんならただの事務員でもキーボード折りたくなりましたけどね。それは芸術への挫折ではなくただの破壊衝動だろ。

あの日のカンテヒョンくんの顔をもはや思い出せない。ただの光になってしまっている。美しすぎるものは概念になってしまうのか。誰が見ても青空が美しいように。

その上自分の名前を呼んでくれて微笑んでくれ?とかそれはもう逆に「そこまでしなくていいから」というものではある。
そこに佇んでいるものを通り過ぎるイベントであっても同じように人は来るだろう。絵画が名前を呼びますか?って話ですよ。

そんなこんなで二晩寝てもまだ治まらない衝撃を文章にしているわけだが、実はミーグリが終わった直後に後ろにいた人と思いを共有しているし、モアちゃんにも複数会ってそのたびカンテヒョンきれいだった話をしており、昨日も帰りの電車の中でさえまだカンテヒョンのこといいすか?と言っていたし、今日も会社で感想を語った。

これでもまだちょっと吐き出し足りないと思ったので、やはり美は衝動であり活力なんだなと思いました。

昨日話したモアちゃんはボムギュとミーグリしてきたのですが、彼を女神だと言っていました。わかる。トゥバはモアにとってのミューズであるという証左だなと思いました。

あと全然どうでもいいのだが、小林誠司(巨人)は、イケメンすぎて小学生女児を泣かせたことがある。(トリビア)
そのどうでもいいことを、ミーグリ終わった会場外で泣いているモアちゃんを見ながら思った。あの女児にとっての小林誠司、それがモアにとってのTomorrow X Togetherなのだなと。すみません、本当に蛇足でした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?