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チャットGPT日記12

前回のおさらい

前回は、色々と時間をかけてチャットgptの出力した文章を修正・編集して、ミュシャの四季の記事を書いたが、デタラメや文字数稼ぎの文章が多かった。
自分自身のやる気などもあって、ほぼ七日かけて満足のいく記事を書くことができない結果になった。

今回の目標

前回まではミュシャについて調べて記事を書いていたけど、今回からはミュシャはミュシャで調べて記事を書きつつ、他にも気になったことや調べたいことをチャットgptやウィキペディア、YouTubeなどのネットを使って調べていくのを目標にする。

理由は単純に自分自身のモチベーションの維持という点もあるけど、それ以上にミュシャについてばかり調べることで、本来の目的であるチャットgptの扱い方を覚える。そしてできればそれでお金を稼ぐ方法を確立するということの目的を見失いかけてたからだ。

5月のできれば10日前後、大体自分がチャットgptをいじり始めて一ヶ月くらいで結果を出したい。具体的には、お金に変わる記事を完成させたい。
とりあえず、今日からはその部分を目標にチャットgptを改めていじり始めようと思う。

新しい挑戦『南北朝時代について記事を書く』

ミュシャ以外の新しい挑戦として、今回からチャットgptを使って南北朝時代を調べつつ、記事を書こうと思う。
何故、南北朝時代かと言えば、単純に最近少年ジャンプの連載漫画『逃げ上手の若君』をきっかけに興味を持ちはじめた時代だから。そして、チャットgptに記事を書かせると、興味深い結果になった。


ウィキペディアで調べた南北朝時代の概要

南北朝時代(なんぼくちょう じだい)は、日本の歴史区分の一つ。鎌倉時代と(狭義の)室町時代に挟まれる時代で、広義の室町時代に含まれる。
始期は、建武の新政の崩壊を受けて足利尊氏が京都で新たに光明天皇(北朝・持明院統)を擁立したのに対抗して、京都を脱出した後醍醐天皇(南朝・大覚寺統)が吉野行宮に遷った延元元年/建武3年12月21日(1337年1月23日)、終期は、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位する形で両朝が合一した元中9年/明徳3年閏10月5日(1392年11月19日)である。
始期を建武の新政の始まりである1333年とする場合もある。

チャットGPTの出力した南北朝時代

南北朝時代は、南朝と北朝の間で激しい戦闘が繰り広げられた時代であり、数多くの合戦が行われました。

(1)南朝と北朝の最初の戦いは、1336年の観応の擾乱で、南朝方の楠木正成が北朝方の足利尊氏を攻めたことがきっかけでした。その後、南朝方の楠木氏や足利直義、北朝方の新田義貞、上杉憲顕などが活躍し、南北朝時代の代表的な戦いである延元の乱や興国の役などが行われました。

(2)特に、南朝方の武将・後醍醐天皇の孫である足利尊氏が北朝方を勝利に導いた室町幕府の建設過程での戦いは激烈で、南北朝時代の代表的な戦いである中先代の乱や明徳の乱、応安の乱などが起きました。

また、南北朝時代には、武士階級の勢力が強まり、土地や権力の争奪戦も激化しました。そのため、武士同士の戦闘や地方豪族の反乱も多発し、戦乱が絶えない時代でした。

南北朝時代の戦乱は、人々の生活や文化に深い影響を与えました。しかし、この時代の戦いや文化が日本の歴史や文化の発展に大きな影響を与えたことも事実です。

調査結果

先に断っておくこととして、チャットgptの出力した情報はデタラメであり、嘘である。
ただ、今回のデタラメは、ミュシャの記事を書いた時のデタラメとはちょっと違い、完全な嘘を並べる形式ではなく、「実際に起こった出来事を適当に並べる」形式の嘘が多かったことである。

文頭に(1)と割り振った部分は、今回の嘘の特に大きな部分で、実際に観応の擾乱について調べると、1350年に起こった足利尊氏の勢力による内紛で、中先代の乱や明徳の乱はこの観応の擾乱とは直接的には関係が無い。また、応安の乱に至っては、ざっと調べた限りでは存在しない為、チャットgptによる完全な嘘と思われる。が、応安という元号とその時期に重大な事件が起きたことは確かにあった。
ちなみに観応の擾乱については、Wikipediaの記事で以下のことが分かる

観応の擾乱(かんのうのじょうらん)は、南北朝時代、正平5年/観応元年10月26日(1350年11月26日)から正平7年2月26日(1352年3月12日)にかけて、足利政権(室町幕府)の内紛によって行われた戦乱。
将軍・足利尊氏の弟で幕府の実権を握る足利直義の派閥と、幕府執事・高師直、将軍・尊氏の派閥が争い、最終的に師直も直義も死亡したことから、生き残った尊氏が擾乱に勝利した。

なお、実態は足利政権だけにとどまらず、対立する南朝と北朝、それを支持する武家や、公家と武家同士の確執なども背景とする。

今後は、チャットGPTに南北朝時代についても教えさせて見ようと思う。

改めて入力した文章

南北朝時代について書いてください。

その際に以下の情報をいれてください。

・南北朝時代は、1336年の建武の新政の後に始まりました。

・観応の擾乱は1350年に始まりました。

・観応の擾乱は足利勢力内部の権力闘争です。

Wikipediaによる観応の擾乱


観応の擾乱(かんのうのじょうらん)は、南北朝時代、正平5年/観応元年10月26日(1350年11月26日)から正平7年2月26日(1352年3月12日)にかけて、足利政権(室町幕府)の内紛によって行われた戦乱。

チャットGPTが新しく出力した文章

南北朝時代は、日本の歴史上、1336年に始まりました。この時、後醍醐天皇の皇子・光明天皇を擁する南朝と、後醍醐天皇の孫・光厳天皇を擁する北朝が、権力をめぐって争い始めました。

その後、南北朝時代には、数多くの戦いが繰り広げられました。中でも、1350年に始まった観応の擾乱は、足利勢力内部の権力闘争によって発生した戦乱でした。当時の足利尊氏の弟である足利直義と、その子である足利義詮が、尊氏と権力をめぐって対立し、戦いが起こりました。

観応の擾乱は、南朝と北朝の対立とは別の動きとして、武士階級内部の力関係が変化したことが背景にあります。観応の擾乱は、長期化し、1368年にようやく終息しました。

南北朝時代は、南朝と北朝の対立が続いたため、社会や経済にも様々な影響を与えました。また、この時代には、武士文化が発展し、和歌や茶道、華道などの芸術や文化も栄えました。南北朝時代は、室町幕府の成立によって終わりを迎え、日本史の新たな時代が始まることとなりました。

 修正後のまとめ

 室町時代の文化や、社会構造や武士などの社会構造に言及することはあるが、その具体的な例がを出力すらことはなかった。
 最大の問題点として、南北朝時代の事件や戦争については嘘やデタラメが多い。
 今後は、この点をどうにかしたい。

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