うっせぇわ feat.俺
人はその人の立つ場所からしか正しさや愚かさを見ることができない。でも、その人が言葉を作るのもいつだってその人の立つ場所だ。そこにはその通りの前提と理論と結論がある。だから、その人は正しさや愚かさを、堂々と見せつけなければならない。
小さな頃、僕は優等生だった。そのまま、僕は気がついたら大人になっていた。僕は自分の思考はいつでも正しく、他人を傷つけるものではないと思っていた。大人になった僕は、人がどれだけ傷つきやすいかを知った。僕がどれだけ傷つきやすいかを知った。それでも、僕の気分は心やさしい優等生のままだった。僕の心はそれだけで褒められる十全なものだと考えていた。
しかしどこか、物足りない。物足りなさが、何事にもつきまとう。完全に存在しないものには、足りなさという言葉は使わない。だから、僕が足りないと思うのは誰かが持っているからだ。その誰かのせいで、僕はいつでも足りなさを感じている。誰かが僕にない正しさを持っている。血眼で、探さなければ。
足りなさを無くすためには、最新の流行も経済の動向も、何もかも目を通して手を伸ばし続けなければならない。社会にある様々な規範も、すべてに目を通す気でいなければ。
ああ、煩い。僕はいつでも十全で褒められるべき存在のはずなのに、どうしてこうも規範に入り切らないのか。平均的に自分を守るために規範を破って生きていくことに価値を感じられない。僕はどこから見ても、優等生でいたい。皆、皆それなりに生きているという。煩い。僕はいつでも優等生だったんだ。
といっても、僕は全ての規範を守らないといけない。規範を守らず自分を守って生きる人を蔑むようなことがあってはいけない。この拳も、柔らかに開いていなければならない。でも、言葉ならどうだろう。議論なら、相手を打ち負かしても、そこに残るのは正しさだけだ。そこでは僕は十全のはずだ。正しさに足りないものなどそこにはない。
ああ、止まれやしない。何でも議論に結びつければ、いつでも僕は正しくいられる。その議論の中にある僕に、足りなさなどない。その議論の中では僕は僕を満たすことができる。
世の中には暗黙の了解や不文律がたくさんある。そんなものがあってはいけない。すべて言葉にすればすべて議論になり、すべて僕の正しさに繋がる。
ああ、煩い。どうせ僕が正しい。議論をしていても、僕以外が口を開く意味を感じない。正しさはいつでも僕の側にあって、僕はいつでも正しさの代弁をしているから、君は否定されるんだから。
ああ、煩い。なんとなく生きて、何となく死ぬ貴方に何が分かるだろう。その議論は、もう済んでいる。僕の人格を否定しても構わない。それでも、正しさはいつだって僕のそばにあるんだ。そこには何の問題も、何の足りなさもないんだ。
僕は僕の立つ場所からしか正しさや愚かさを見ることができない。でも、僕が言葉を作るのもいつだって僕の立つ場所だ。そこには正しさがある。だから、僕は僕の正しさを、君の愚かさを、堂々と見せつけなければならない。
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