「イエスタデイをうたって」覚書の2

この度はアクセスありがとうございます.
本稿は,「イエスタデイをうたって」(以下「イエうた」)に関する覚書であり,それゆえ同作のネタバレを多分に含みます.
閲覧に際しましては,その点について十分ご注意のほど,よろしくお願いいたします.

「うえっ,実体!?」
(原作11巻242頁,アニメ12話Bパート)

原作では三重県の某駅で,アニメにおいては都内の某駅で,それぞれ電車とバスを待っていたハルが,突然現れたリクオに対して無言の腹パンを見舞い,悶絶する彼を前に発した言葉がこれです.
今回のテーマはこの台詞です.

もちろん,これは"笑える"シーンであるため,このようなお堅いフォーマットで論ずるには相応しくない台詞であるように思われる一方,"笑い"を取り去った残り部分の含意するところが非常に豊穣であるようにも思われるため,取り上げさせていただきます.
なお,台詞の引用に関しては,特筆がない限りは原作は11巻,アニメは12話Bパートからです.

まず,アニメにおいて,「実体」が意味するものは非常に明白であると言えるでしょう.

リクオの住む街へ戻ることを決め,ベンチに腰掛けてバスを待つハルの目の前を,出会いの日のリクオと自分が,そして,頬を染めながら,バス停で佇むリクオとすれ違うきのうの自分が通り過ぎていきます.

このシーンは,藤原佳幸監督が12話オーディオコメンタリーで述べているように,ハルが自分の幸せのかたち(「中学校の頃に一目惚れして,ただバス停で,話しかけなかったけど,すれ違うだけで凄い幸せだったじゃん私,っていう」,「初心に返れば,傍にいられるだけでよかったんじゃないのか私,っていう」)に思い至るシーンであり,音楽と映像とも相俟って非常に美しいものです.

自分にとっての幸せのかたちを自覚し,「行くところまで行って」さらに傷つく可能性を十分に認識しながらもリクオの住む街へ帰らんとするハルの目の前に,今度は幻でも錯覚でもないリクオが現れる.
まさに「実体!?」であるわけです.

一方,原作における「実体!?」は,アニメに輪をかけて味わい深いシーンとなっています.

自分の気持ちを整理するために三重県にある祖母の家に身を寄せていたハルは,静かな環境での内省に加え,祖母との対話やミナトとの奇跡的な再会などを経,やはりリクオの住む東京へと戻る決意を固めます.
そして駅で電車を待つハルのもとに現れたのが,ハルに好意を寄せる雨宮でした.(1)
迎えにきた,自分とともに東京へ戻ってほしいとハルに迫る雨宮はしかし,みもりの父が虚血性心疾患で倒れたとの凶報を受け取っており,ただちに郷里長野へ向かう必要のある身体でもありました.

原作「イエうた」は,相似な構造や主題を持つ人間関係が重層的に語られていく構造を持っており,それはさながらラヴェルの「ボレロ」のように徐々に迫力を増しながら読者を物語のフィナーレへと導いていきます.
この場面に直接的に関与するリクオ,ハル,雨宮,みもりの関係性に焦点を絞っても,

ハルはリクオに焦がれてきたが,そのリクオには榀子という恋人がおり,ハルのことを友達以上の存在として見ようとはしてこなかった.
雨宮はハルに恋しているが,そのハルはリクオのことを好きであり続けており,雨宮の猛烈なアピールを持て余しているところがあった.
みもりは雨宮との関係が兄妹同然のままであることに歯痒さを感じているが,雨宮はハルに恋しており,みもりを妹然とした存在以上のものとして見ようとはしてこなかった.

と,状況は極めて似通っています.

過度な図式化の科を敢えて犯せば,「AはBに恋しているが,そのBにはCという想い人がおり,Aの感情にはどこか無頓着である」という,構造的にほぼ一致する人間関係が互いに絡み合っていると纏めることができます.
もちろんこれらに加え,早川兄弟を交えたリクオと榀子の関係や,九州の家業と東京の杏子との間でジレンマに陥るクマさんのエピソードなども通奏低音として響きわたっている原作の最終盤,ハルが雨宮に対して投げかけた問いと雨宮の答え(226-234頁)は,ハルにとって実に3層の意味合いを持って響きます.

「雨宮さんにとって,一番大切なのは誰ですか?」
「とにかく僕は…何がなんでも絶対に行かなきゃならないんだ」
「…….わたしもそう思います」

この問いの意味するところは,ひとつには
「はるばる三重まで自分を迎えにきてくれた雨宮ではあるが,彼にとって本当に大切なのは自分ではなく,みもりなのではないのか」
というものであり,また同時に
「自分は今,自分を追ってはるばる三重まで来てくれた雨宮の行動に強く心を動かされてはいるが,それでもやはり,自分にとって本当に大切なのは雨宮ではなくリクオなのではないか」
という自問自答の側面を持っているとも言えるでしょう.

雨宮の「僕は何がなんでも絶対に行かなきゃならない」が,問いの持つ1層目の意味合いに対する直接の答えであることは明白です.
みもりが自分にとって最も大切な存在であると自覚した雨宮は,せっかく三重までハルを迎えに来たにも関わらず,翻身して一人長野へ向かうことを選びます.

そして,雨宮の言葉に対するハルの「私もそう思います」は,彼の選択を肯定しつつ,問いの2層目の意味合いに対しても答えを確認したことを表していると言えるでしょう.
雨宮の根底にみもりへの強い感情があるように,自分の核には,やはりリクオの傍にいたいという変わらぬ想いがある,リクオに会いに行かないわけにはいかない.

そして,ハルは雨宮に「フラれちゃった」ことを通じ,間接的にリクオにもフラれたに等しい状況にいるとも言える,ここに3層目の意味があります.

はるか三重まで自分を追いかけてきてくれた雨宮ですら,自分の最も大切な人はハルではなくみもりであることを自覚し,自分の元を去っていったのです,雨宮同様にずっと好きだった相手がいるリクオが,榀子がいるリクオが,自分の方を向いてくれるはずがない.
駅のホームを去っていった雨宮の背中は,ハルにとってそのままリクオの背中であったと言ってもいいでしょう.

「まあ…しょうがないよね…」(236頁)
「なんでまだいるんだ?」(237頁)

現れたのは,ハルにとってみればこの場に最も現れるはずのない人間です,この「実体」を疑わずにいられるでしょうか.(2)


以下,余談です.
この後,アニメにおいても原作においても,リクオとハルはベンチに腰を下ろして話し合い,キスをし,暖かなカーテンコールの中で物語の幕は降りていきます.
そしてこの時,アニメではハルがリクオにキスをするが,原作ではリクオがハルにキスをする.

アニメを踏まえた上で原作を見るならば,原作リクオはアニメと違ってハルに「好きだ」と言わない(3)ため,言葉の代わりに行動で示したものだとして十分理解できるのですが,当然ですがこれは順番が逆で,原作を基にアニメが作られているので,アニメ化にあたってキスの主体がなぜリクオからハルに変わったのか,という形で問いが立てられる必要があります.

原作において,リクオからハルにキスをするシーンには強烈なカタルシスがありました,リクオの傍にいたいと焦がれ続けるハルが遂にリクオに受け入れられたという意味でも,榀子とのキスを未遂に終わらせて続けてきたリクオが遂に一歩を踏み出したという意味でも.

この展開をいじるのはなかなか勇気がいる気がします.
けれど,アニメを見返してみると,アニメではアニメの終わり方が一番しっくりくるような気がします,不思議なことでした.

そして,この意図について,なんと藤原監督が12話オーディオコメンタリーで解説を行っていました,
「ハルに幸せになってもらいたかった」.

素朴な言葉だったのですが,何か完全に理解してしまったような気がしました.
アニメのハルには,「大好きな相手にキスをしてもいいんだ」としてリクオの傍にいられるという実感を得るかたちが,キスをされるというかたちよりも,たしかにしっくりくるような気がします.
いかがでしょうか?


以下註

(1) 三重にいるハル,そこへ向かうリクオと雨宮,果たしてリクオは先着できるのか,というタイムリミット・サスペンスの様相を呈する原作最終盤において,結局リクオが雨宮に先を越されてしまうという展開は,まずそれ自体で秀抜極まりないものだと思います.恋はそもそも「スゴーイ自分勝手」(2巻133頁)なものかもしれないとはいえ,自分の気持ちに蓋をし続け,ハルを傷つけ続けてきたリクオです,そんな彼が自分の気持ちに気がつき,ハルを求める段になった時には,彼女に下駄を預けるしかないというのは.

(2) 「イエうた」は無数の恋愛関係・人間関係を取り扱いますが,その中で人物たちは,キャラクターとしての顔見せが一通り終了した時点において最も重く引き受けているように伺えた事柄・関係を,言わば「キャラクターとしての原点」「初心」を,最終的に貫徹する道を選ぶ場合が非常に多いという傾向があります.当然ながら例外はあります.最も印象的な例外は,他ならぬ主人公のリクオです.「オレは本当にオマエが好きだったんだ」という台詞が不協和音ではなく,甘さと切なさをいっぱいに湛えて響くことが,やはり本当に素敵だと思います.

(3) リクオに後ろから抱きついたハルが「ここまで来たんだからなんか言えよ」とせっつくシーン(253-254頁)は,原作におけるハルのいじらしさが詰まっていてすごくいいなぁと思います,「そばに居ればいい」「そばに居れば何も言わなくてもいい」(84頁)はずだったのに.そして一方,違った言葉で何度でも好きと言われたい,「今の告白,やり直しを要求する」アニメのハルもまたすごくアニメのハルで,素敵だなぁと思います.