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『BABY CRY』〜Paint My Soul / b-flower

すべてを拒んで すべてを あきらめるのか
  幸せな景色 幸せな眼で見るのか
  生きるってことは ほんと 難しいことだから

『 Paint My Soul 』
1999/12/17 “agent con-cipio” レーベルより発売のミニアルバム 6曲目

[アルバム Paint My Soul]

(岡部亘さんボーカル/作曲の別ユニット『Humming Toad』の好評により)
60年代ポップの企画としてのリリース
(ベストアルバムのヒストリーブックより)

[アルバム Paint My Soul]

※b-flower 名義のミニアルバム ですが
参加しているのは
八野英史(vo,ag,eg,cho)
岡部亘(dr,ag,eg,key,cho etc)
宮大(ba,cho)
鈴木浩さんは参加していません。
中の歌詞カードの写真も3人だけ※

[歌詞カード内 写真]

すべてを笑って すべてやり過ごせるのか
  悲しみの唄を 悲しい耳で聴くのか
  死んでしまうことが 正しいと思うのなら

[歌詞カード内 写真]

私は、自分では b-flower のコアなファンとか、
マニアとか、全く思っていませんが、
他の人にそう言われる事が時々あります。
(岡部さんには「あなたは b-flower のコアなファンだから」と言われ、
八野さんには、旧ブログの記事へのコメントのお返事で “b-flowerマニア” の認定を頂きました…)

ただ、1991年から b-flower が進んでいく後をついてきただけで、
アルバムやシングルが発売されれば 買い求め、東京でライブがあれば行きましたが、
他のバンドに比べれば その歩みは かなり緩やかだったので、あまり熱狂的に追い駆けていた訳でも無く。
音楽誌に載っていた、新しく作る b-flowerの私設ファンクラブのメンバー募集に応募し、ライブの感想やセットリストの記事を書いたり、イラストを描いたり、していました。
主催者は神戸の芦屋に住む女子短大生で、会報はコピーした手作り感ある物でした。
その子が東京のライブに遠征して来た時は、一緒に入待ちや出待ちをしたり。ライブで花を投げ始めたのも彼女達でした。

1999年頃までは、CDが発売される度に、ラジオやイベント等のお知らせを下さるスイート·スプエストやブレストの方々のおかげで、何とかその足跡を見失わずにいられたのかな、…と思います。

そして、ずっと b-flower とその歴史を共有したきたファンは、愉しい想い出と共に、無慈悲とも思える 災難や永遠の別れを、共に体験しなくてはいけなかったのです。
人生は愉しみばかりでは無いと判っていても、
こんなに無垢に一生懸命、自分達の音楽を作っている b-flower に、何故こんなに困難な出来事ばかりが降り掛かってくるのか…
呆然とする事しか出来ない自分が、本当に歯痒かったです。

長々と書いているのは、この後の文章を書くのに躊躇しているからです。
でも、この事を書かなければ、b-flowerというバンドが沢山の困難に見舞われながら、何度も再生している凄いバンドなんだという事や、
私がずっとb-flowerのファンで居続ける理由を、理解して貰えないのでは、と思うので。

八野さんは、多分 この出来事を思い出したくないと思います。
ファンからのコメントにも無言を貫いているし、2000年以降の 冬眠後のインタビュー等で、この出来事に触れた事も無いと思います。

でも、私達ファンは、彼女の事を忘れてはいけないのでは、と最近思う様になりました。
何も無かった事にしてしまうのは、あまりにも残酷だと思うのです。
それは、その存在さえも否定してしまう事だから。
あの日、b-flowerのライブを楽しみにして、遠い東京まで長い時間をかけて来たのは、
私達と同じファンの一人なのだから…

2020年6月の ムクドリの会 日下部将之さんの突然の死。
2017年1月の b-flower メンバー 岡部亘さんの突然の死。
私達は、b-flowerのメンバーと共に その哀しみを乗り越えてきたのだと思っています。
冬眠後の、ムクドリの会や それを支えている方々の力も、とても大きかったと感じています。

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その支えも無く、b-flowerが新たな海に漕ぎ出そうとしていた頃の話です。
この時 既に東芝EMIとの契約が切れていたのか私には解りませんが、
1999年12月 原宿ルイードの『 Paint My Soul 』発売記念の b-flower ライブの途中、
ファンの一人が心臓発作で倒れ、意識不明になりました。

確か、何曲か演奏して盛り上がり始めた時です。
この頃の b-flower のライブは、ほぼスタンディングになっていましたが、この会場は椅子席でした。
私は、ステージに向かって左側に座ってました。真ん中辺りに座って居た女性が、突然 椅子から崩れる様に落ちました。
最初は、貧血で倒れたのかと思いました。
直ぐに演奏は止まり、八野さんがステージから飛び降りてきました。
隣の友人らしき方も駆け寄って名前を呼んでいますが、意識が無い様です。
その友人の話では、九州からライブに来ていて、心臓の持病があるとの事。
持っていた薬を探して飲まそうとしますが、口を開けられません。

「どなたか、救命の知識のある方は居ませんか?!」
と八野さんが呼びかけ、一人の方が手を挙げて 心臓マッサージを始めました。
スタッフが救急車を呼んでいるようですが、原宿駅近くの、細い路地にあるこのお店まで、通常よりかなり時間がかかる、との事。
心臓マッサージは続けていましたが、意識は戻りません。
八野さんが
「みんなで、彼女の名前を呼んであげて下さい」と言い、周りを囲んでいたファンも八野さんも、祈る様にずっと名前を呼び続けました。
私は 呼びかけながら、ずっと彼女の手をさすっていました。まだ手は温かく、彼女の命は まだ此処に有るのを信じました。
何分位過ぎたのでしょうか…漸く救急車が到着し、救急隊の方が担架で彼女を運び出し、病院へと向かいました。

皆、呆然と立ち尽くしていました。
八野さんがステージに上がり
「今日のライブは中止しますが、何らかの形で必ずこの埋め合わせをします。僕達はこの後、病院へ向かいます」
と告げました。
私は、知り合いのファンの子を見つけ
「彼女 大丈夫かな…明日の京都ライブも中止になるのかもしれないね…」等 話しながら、一番最後に出口に向かうと、
b-flowerのメンバーが全員立っていて
「今日は中止になってしまい 本当に申し訳ありませんでした」
と一人一人に頭を下げていました。
私は その姿を見ながら、涙目になっていましたが
「皆さんの方がショックだと思います、謝らないで下さい。でも、もし出来れば 明日の京都ライブは中止にしないでほしいです。皆、とても楽しみにしています…」
と八野さん達に言いました。
八野さんは、暫く他のメンバーと顔を見合わせていましたが、
「わかりました、皆で考えてみます」
と言ってくれました。

この後、b-flowerのメンバーは病院へ向かいましたが、
明け方、彼女は目を覚ます事無く、息を引き取ったそうです。

翌日、京都でライブは ありました。
当時の私設ファンクラブの子が、メールで教えてくれました。
八野さんは『BABY CRY』を演奏する前のMCにて、
前日の東京 原宿のライブで 心臓の持病があったファンの女の子が途中で倒れ、ライブは中止になり、今朝 その子は亡くなった事、
今日のライブをやるか とても迷ったけれど、
この曲を彼女の為に歌う、と告げました。

ファンもメンバーも 泣いていたそうです…

約束通り、翌年2月に 同じ場所で この日のやり直しライブが行われ、10曲程演奏されました。
当日のチケットを持っていた人は無料だったので、かなりの赤字になってしまったのだろうと思います。

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その後、京都では2003年まで何回かライブがありましたが、
冬眠を挟んだ 2017年まで b-flowerは 東京でライブを行いませんでした。
私は、この事がトラウマとなっているのでは、と思っていました。

だから、2017年の渋谷LUSHのライブは、奇跡の様でした。

[2017/12/2(土) b-flower & The Laundries @渋谷 LUSH]
(ランドリーズ木村さんツイッター写真だったかと…)


2003年の京都ライブを最後に 八野さんが冬眠してしまったのも、この事が大きな心の傷のひとつとなっていたのでは、と私は思っています。

信じられない様な困難を、何故 神様は b-flower に何度も与え続けるのだろう…
と、いつも思います。
でもその困難に打ち勝って、何度も復活する
b-flower は、ほんと凄いバンドだな、と思います。
その b-flower を今も継続させている 八野英史 さんは 本当に人間としても 素晴らしい方だと 心から思います…


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