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待ち合わせは道玄坂で

会社を辞めることになった。私が上司に伝えた退職理由は全く信じてもらえず、社内ではセクハラ説やパワハラ説などの憶測が飛び交っていた。「あの上司が悪かったな」「うちの部署に来ればいいのに」「社長に言っておいたから」などと色んなメッセージが来ていたが、返信を保留してベッドに転がっていた。朝は少しずつ明るくなって、やがて近くの中学校からプールの授業の声が聞こえてくる。

たまりにたまった有給休暇を消化することになり、永久とも思えるヒマな日々が与えられた。迷うことで時間を使うのが嫌いなので、前職中に誘ってくれていた会社の中から次の職を決め、条件も確認してしまうと、特にやることがなくなった。

「せっかくの長い休みだから海外にでも行って来たら」と言ってくれる人もいたが、まだ夏休みの時期ではなくて一緒に行く人もいなかったし、あまり行動力がみなぎらず、ベッドに転がって文芸誌を読み返したり、映画館に出かけてどうでもいい邦画を見てパンでも食べて帰ったり、そうして時をやり過ごしていた。

そんな日々を一か月ほど送ってやっと、誰かに会いたいと思うようになった。LINEのトークページをスクロールする。「2017年5月プロジェクト」「チーム萩原」「札幌出張」みたいな仕事のトークがほとんどで、途中に親や学生時代のグループが出てくる。なんか、あんまり友だちいないんだなぁ。いつもその場にはなじめているつもりだけれど、個人とプライベートな関係になることが少ない。

トークの奥底によく知っている名前があった。学生の頃に付き合っていた男だ。最後のやり取りが深夜23時の彼からの「財布あったわ」のふきだしで終わっている。何か月か前に共通の友だちとの飲み会があり、彼が酔っぱらって財布をなくした。そのとき昔の彼女のよしみでお金を貸したのだった。そういえば返してもらってないな。

彼はフリーランスでライターをしている。きっと平日は時間があるだろう。「お金返して」とだけメッセージを送り、またタオルケットを抱いてうとうとしていた。

二日経ってやっと返事が来た。「ごめん。LINE調子悪くて」。調子悪いって、90年代のパソコンじゃないんだから。平日ヒマでしょ?と尋ねると締切がどうのこうの言われたが、会ってくれることになった。「そういえば新しい記事読んだけど」こういう時だけすぐ既読になる。「良かったよ」と送ると表情の読み取れないキャラクターのスタンプが送られてきた。喜んでいるのだろうか。

彼が渋谷で15時頃まで取材ということだったので、自宅でゆっくり昼ご飯を食べ、久しぶりにコテを温めて毛先を巻いていると、「終わったよ」と連絡が来た。早いな、まだ14時じゃん。「どこかで待ってて。場所を指定してくれたら行くから」と送る。

渋谷は平日なのに誰もが肩を出していて、無地の半袖Tシャツにひざ丈スカートの私は少し居心地が悪かった。彼からメッセージがこないので「どこ?」と送ると「道玄坂」とだけ返ってきた。道玄坂は坂の名であり、渋谷駅西側一帯の地名である。私の常識では「ハチ公前」とか「109前」とか、ピンポイントで場所が送られてくるかと思ったので驚いて、ああ、そういうところだよなあと笑ってしまった。

「道玄坂のどこ??」
「道玄坂を歩いてみて」
「いや、どっちに???」
「会う必要があれば会えるはずだから、心配しないで」
「は?変な小説でも読んだ????」
「あ、ちょっと待って。さっきのカフェに財布忘れた」
「え、また?????」

諦めることと待つことには慣れている。「道玄坂のエクセルシオールで本読んでるから、諸々済んだら来て」と送る。結局彼が現れたのは16時近くだった。ユーロスペースで一緒に観るはずだった映画の開始時間を過ぎている。仕方がないので、ナプキンでアイスコーヒーの水滴を拭きながら近況を話し始めた。

「ねえ、仕事辞めることにした」と言うと「へえ、いいんじゃない」と言う。
退職を決めてからの一か月で、そういうふうに軽く言ってくれる人は初めてだった。
「文章書きたいんでしょ?」と彼は聞く。
「うーん、次はそういう仕事じゃないよ」
「いや、それでもあなたは書くことになる」
「そうかな」
「書く必要があれば書けるはずだから、心配しないで」

あれから一年以上の月日が流れた。彼の言った「必要」というものが何なのか、私にはよく分からない。でも、会う必要があれば会えるはずだし、書く必要があれば書けるはずだ。その言葉をお守りに、心配しないで今日も生きている。

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