見出し画像

言葉の切れ味に酔うと理性を失う、という話

他人に向かって「生命をもって償え」と言えてしまう人がいることに驚きます。当事者ならまだしも、全く無関係なのに。

ツイートの文字列に脊髄反射しているだけなのに、切れ味のよい言葉で賢くなったつもりの人が、批判や感想という名の石を他人に投げつけているのが「炎上」ですよね。

感想は、冷静に公平な視点で充分に考察したものでしょうか?

批判するなら、どこがどう良くないか分かっているでしょうから、改善する案を持っているはずですよね。他者の死が改善案なのでしょうか?
代案のない批判はただの悪口です。

Twitterは元々ひとり言を発信するツールなので、どう使おうと自由です。
ですが、リプや引用RTで「わざわざ他者に届ける言葉」には責任が伴わなければならないと思います。

匿名を隠れ蓑にして、言葉の切れ味に酔っているだけでは、ただの愚かな人です。
何のために何をするか(何をしているのか)を客観的に見ていない感情的な言葉に動かされる人はいないので、その感想や批判は聞く価値がないと判断されても仕方ないと思います。

相手にとって聞く価値が無い言葉は、自分が発する価値があるのでしょうか?という話です。

もし何かに怒りを感じたら「怒る権利があるのは誰か」を考えると良いと思います。

自分は何に対して怒っているのか、それは正当な怒りかを考えてみてください。当事者でない場合の怒りのほとんどは、単なる義憤だと思います。外野の義憤は、当事者間の問題解決の邪魔にしかならないので、助けを求められていないなら、静観するのが理性的な行動だと思います。

義憤は正義感から来ることが多いと思いますが、せっかくの正義感なのに、そのせいで必要以上に問題を大きくするのは本末転倒ではないでしょうか?

鋭い言葉で何かを批判しても賢人にはなれません。
聞いてもらえない言葉を発するより、自分が楽しいことに時間を使った方が人生は楽しいと思います。