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『察して文化』がなくならない理由

察して文化を嫌がる人は多いのに無くならないのは、「嫌がりながらも察して、相手の希望に合わせる人がいなくならないから」と考えています。

「察する」のは日本人だけではありません。どの国の人も相手の心情を察して、思いやったり喧嘩したりしています。

だけど日本で「察して文化」という表現を使うのは、察する側が嫌々なのに相手に合わせているからではないでしょうか?

他の国の人達は、相手の希望を察してもNOを言えるから「察して文化」にはならないだけで。

相手の心情を察するのは本能的なものだと思うので、止めるのは困難です。また、優しさや思いやりに繋がる場合もあるので、察すること自体は否定すべきではないと思います。

私は映画鑑賞が好きなのですが、洋画を観てると、相手の心情を察してるのは日本人だけではないのが分かります。ただその後の行動に違いがあります。嫌な時はNOを言うのです。

私が観る映画は欧米のものが多いので偏りがあるとは思いますが、映画で観る限りでは他の国には「察してもらおうとする人」がいません。

それは察しても互いにNOを言い合える環境だからだと思います。

日本では察したら相手の希望通りに行動してしまう人が多いから、察してもらおうとする人が出てくるのではないでしょうか?

加えて、多くの人は察して文化を嫌がってるだけで、実際に否定の行動をしていないと思います。それは視点を変えると「察して文化を否定してることを、察して欲しい」ということです。

NOを言わない限り、互いに「察してもらおうとしてる」と言えます。

全ての人が察した上でNOを言えるようになれば、負のイメージでの「察して文化」は消滅すると思います。