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議論と論破

『論破』は、一見、論で攻めているので冷静なように錯覚しがちですが、私にはとても感情的な行為に見えます。

議論の目的は問題の解決ですよね。
問題があるということは、確実に2つ以上の意見が対立してる状態です。

話し合いの結果の全員一致なら最高ですが、大抵の場合は皆が少しずつ我慢して、"落としどころ"を見つけることになりますよね。

私は(少し趣旨は違いますが)『三方一両損』の精神が非常に有効で理想的だと考えています。

三方一両損とは(デジタル大辞泉より)

落語。講談に取材したもの。左官金太郎が3両拾い、落とし主の大工吉五郎に届けるが、吉五郎はいったん落とした以上、自分のものではないと受け取らない。大岡越前守は1両足して、2両ずつ両人に渡し、三方1両損にして解決する。

皆が同じ分量の我慢をすれば、不公平感がなく平和的な解決が可能なはずです。

そこに論破したがる人がいると、三方一両損で解決するものも解決しなくなりますよね。落としどころを探る話し合いではなく、価値観の押し付け合いになってしまう。

本当に冷静に問題解決を考えるなら、論破ほど邪魔なものはないと思います。それが分からない以上、どんなに論で攻めても、本質的に論理的な思考ではないと言えます。

論破というのは言葉の暴力に近いと思っています。話し合いにならないですよね。

話し合いというのは、互いの意見を比較検討して、自分の意見との相違を確認しあって、落としどころを探ることですよね?それが議論だと思います。

論破が目的だと、他の意見を検討もしないで一方的に自分の価値観を押し付けてくるので、価値観で殴るのと同じことだと思います。
双方が疲弊するだけで全く無益なのに、それに気付かずに論破しようとするのは冷静な言動と思えませんし、論理的な思考の持ち主とは言えません。

これが、私には『論破』が「ただ自分の価値観を押し付けるだけの感情的な行為」に見える理由です。

持論があるということは、何かを考えて、その人なりの答えがあるということです。どんな主義主張でも「その人がそう考えるに至った理由」があるはずなので、それを尊重し合えば言い争いは減ると思います。

政策への意見の対立を例に考えます。
意見が対立していても、双方の目的は「社会を良くしたい」ということですよね。目的は同じだけど、政策という手段への意見で対立している。
本質的に同じ目的なのに、言い争って不穏になるのは平和が遠退きますし、非常にもったいないと感じます。

表面上は論破が目的に見える人も、その持論を持つに至る出発点は「こうすれば社会は良くなるのにー!」という願いだと思います。その目的達成のための手段として、対立する意見を論破しようとしているのでしょう。分からなくはないですが、それでは目的と手段がこんがらがっています。

持論は無いよりも、ある方がいいと思うので、それで他者を殴るのではなく、相手の意見を検討する余裕を持つと、平和に建設的な話し合いができると思います。
せっかく考えて出した答えを持っているのに、ただの言い争いで終るのは、もったいないですよね。