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「女性抑圧からの解放運動」のあれこれに思うこと

最近、ヒールの高い靴の強制への反発や、生理を恥ずかしいと思うのはおかしい、という内容の運動を目にします。

ですが、靴の件も生理の件も、私なら一人で好きにするので、呼びかける理由がよく分かりません。みんな好きにすればいいのでは?と思います。

靴の規定が嫌なら服装が自由な職場を探せばいいのでは?それか規定を守らずに好きな靴を履けばいいのでは?
生理を公言するのも自由だと思います。もちろん秘密にする自由もあります。

みんな好きにすればいいのでは?

賛否両論があって論争になっているそうですが、どうして揉めるのか私には分かりません。私はどちらにも肩入れしません。私は私の好きなようにするので。論争が起きること自体がおかしいと感じます。

みんな好きにすればいいんですよ。

靴も生理も、「新しい価値観」を呼びかけることで逆の同調圧力を生んでいるように見えます。

「女性が強いられているからNOを言う」ではなく、「私はこう思うので、私はこうします」でいいのでは?

繰り返しますが、私は否定でも賛成でも中立でもありません。活動の趣旨を否定しません。「私は私が思うようにする」という話です。

ただ、どんなに趣旨が素晴らしくても、同調圧力を生じるものを好きになれません。賛否を論争するより、賛成派も否定派も自分の好きにすればいいよ!という考えです。自分と相容れない考えの人を攻撃するのをやめよう!棲み分けよう!と言い続けています。

あるカテゴリに属する誰かの生きづらさを解消するために勢力を作りたいのは理解できますが、それは新しい同調圧力を生じる可能性が非常に高く、新たな価値観のカテゴリに属さない人との分断が起きます。
賛否の論争がまさにそれです。

いま話題の二つのキャンペーンは同性間での分断が起きています。これは本末転倒ではないでしょうか?そういう意味では二つのキャンペーンは、趣旨を否定しませんが、手段に賛同しかねます。
趣旨とは外れて社会が分断してしまって、何のための運動なんだろう?と思います。

誰かの生きづらさを解消するために新しい生きづらい人を作り出す必要はないのだから、「女性が抑圧されている」という論調よりも「私はヒールは履きません」「私は生理期間を公言します」を実行している姿を見せるだけで良いと思います。

選択肢は当たり前にあるという前提で、どちらも自由に選べる社会が理想ではないでしょうか?

否定派の人は押し付けがましさを感じてるのだと思います。
「生理は恥ずかしくない!」と言われても、余計なお世話よねって。あなたはそうかもしれないけど、私は違うしって。

靴の件も生理の件も、本質は「女性」の問題ではなく「個人の自由」の問題のはず。その焦点のズレに強い違和感を覚えます。

個人の自由の問題だから「好きにすればいいのに」という感想しか持てません。

「私はこう思うから、こうしてる・こうする」で良くない??