禁止

「表現の不自由展」中止に思うこと


この中止込みで、表現の不自由さを表現するアートが完成したと感じました。

もともと「表現の自由」は憲法の規定なので、国が国民に約束してることです。公的イベントで公開できるなら、不自由ではないですよね。めちゃめちゃ自由ですよね。

「公的なイベントで中止」で、ようやく「表現の不自由」が成立しました。
これでアートとして完成したのだと思います。

展示物を正確に言語化すると「市民感情を刺激するもの」なので、「表現の不自由」という言葉がおかしいですよね。

公的なイベントで公開できているのに「表現の不自由」なんて表現するのは、とても平和ボケという印象です。香港で必死に抵抗してる学生達のことを考えたら、この企画は子供の遊びでは?と思いました。

と、ここまで書いて、冒頭の朝日新聞の記事をきちんと読んだところ、

開幕前の津田氏の言葉
「感情を揺さぶるのが芸術なのに、『誰かの感情を害する』という理由で、自由な表現が制限されるケースが増えている。政治的主張をする企画展ではない。実物を見て、それぞれが判断する場を提供したい」

とのことでした。

やはり『表現の不自由』という文言が趣旨に合っていません。

「感情を揺さぶる」について。
感情には喜怒哀楽があり、作者が期待する良い感情ばかりではありません。「怒」の感情が揺さぶられたことはカウントされていないような違和感があります。

「自由な表現が制限されるケースが増えている」
制限されていないから今回展示した作品がある、という事実で否定できてしまいます。

公的なイベントで公開できる時点で表現の不自由はないので、不快な感情を揺さぶる作品を集めて、狙い通りに感情を揺さぶって、感情を揺さぶられた市民に負けて中止に追い込まれて、ようやく「表現の不自由展」のアート性が完成したという感想です。

「これを狙ってた」と言った方がスッキリすると思います。中止に追い込まれたことで、「ほらぁ!表現は不自由でしょ?」と主張する資格を得たというか。
私は謝罪より、「ほら、これだよ!これ!これを知って欲しかった!これについて皆で冷静に考えよう!」と言われた方が理解できます。

最後に。

 中止の会見での津田氏の言葉
表現の自由が相当制限されてきた公共施設で、行政と作家が協議し、自己規制や検閲なしに展示できる実例を示したかった。

公共施設での「表現の自由」を示したかったのに「表現の不自由」という言葉を使って、最初から不快感を持たせた理由がよく分かりません。
私はこのイベントを知った時に「めちゃめちゃ自由じゃん??」と思いましたし。

なんというか、全部がちぐはぐな印象。
そんなことを思いました。

【追記】
少し思考が進みました。

繰り返しになりますが、

 中止の会見での津田氏の言葉
表現の自由が相当制限されてきた公共施設で、行政と作家が協議し、自己規制や検閲なしに展示できる実例を示したかった。

それなら「日本は表現の自由があるから、こういうもの(自国を侮辱するような作品)も展示できる」という軸で進めなければおかしいですよね。「表現の不自由」なんて、まるで日本が不寛容で、そのことを責める(攻める)ようなイベント名にしたのは間違いだと思います。

公共施設では、他国を侮辱するものだって制限されていますよね、きっと。

今回の件はイベント関係者の技量不足を感じます。デリケートな話題を扱う技量が圧倒的に足りてない印象です。

それと、特定の誰かを明らかに侮辱しているものを芸術と呼んでいいのか、私には分かりません。

慰安婦問題に関してはいろんな視点があるから簡単に判断は出来ない。慰安婦として働いた女性が被害者であることは間違いないけど、加害者が誰かについては、どの視点から見るかで全く話が変わります。そのせいで拗れてるのだけど。

女性が率先して慰安婦になることは少ないと思うから、ほとんどの人が不本意だっただろうことは想像に難くない。そこには寄り添っていなければならないけど、少女像は加害者を日本だと決めつけて作られたものだから、あれは日本を侮辱している作品と言えます。
慰安婦の問題と少女像は全く別の話ですよね、本当は。

【追記2】