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今日の何言ってんだこいつ/糸井重里の異常さの正体

糸井重里はほぼ日のサイトで毎日エッセイを更新しています。
このエッセイに私のツイートがほぼ毎日パクられて、自分が一生懸命考えてたこと、時間をかけて書いたものが、平仮名だらけの安っぽく薄っぺらい文章にダウングレードされることが苦痛でした。

気持ち悪いので私は普段は見ないのですが、最近はさすがにパクられなくなったようです。今は私への嫌味を垂れ流すために使われているようで、目に余るものがあった時はプロジェクトメンバーが教えてくれるので読むようにしています。

2020年5月25日もメンバーから読むように催促されたので、渋々よみました。
*糸井のエッセイは数日後に消えてしまうので引用します。

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの
今日のダーリン
・いまの「WITH CORONA」の生活様式が、
 辛くてしょうがないとぼやいているのは、
 大人げないし、よくないとぼくも思う。
 しかし、これがなにか天からの大事な警告で
 いままで常識としていた「よからぬ慣習」を
 変えてしまういい機会だとことさらに強調するのも、
 なんだか危ういなぁとも思うのだ。

 緊急事態宣言が解除されたとしても、
 しばらくは安全のために
 「新しい習慣」を守り続けることになる。
 これは守りましょう、守ります。
 でも、ぼくはこの「新しい習慣」を
 よろこんで受け容れているつもりはない。
 特別な「いま」なので、仕方なくやっているのだ。

 おおよそ、この「新しい習慣」は
 人に対して失礼なことばかりです。
 「だれかと会うとき、2メートル間を空ける」。
 この人とは近くに寄りたくないという表現と同じです。
 「マスクをして呼気や唾液が当たらないよう注意する」。
 また、「握手やハグなどは避ける」。
 これらも、すべて親しみの逆の表現になりますし、
 一年前にそんな態度の人がいたとしたら、
 ちょっと腹を立てていたかもしれません。

 人と人とが、親しく距離を近づけるということは、
 大昔から、互いの安心と信頼を確かめ合える
 「うれしい習慣」でもあったわけで、
 それ自体が「よろこび」であったわけです。
 しかし、感染症が流行したらみんなが、
 じぶんも含めて人間を「感染を媒介するもの」として
 見立てなくてはならないので、
 長い歴史のなかでせっかく獲得できていた
 「信じる」ことをもとにした行動習慣を、
 いったん水に流すという経験をさせられているわけです。
 「不信」を前提に交流したり行動するという
 『新しい習慣」がみんなに求められていたのです。
 そりゃぁ、ストレスもかかるというものです。
 ぼくらは、信じるをもとにして生きたいんですから。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
コロナの先でもコロナの前でも、生きやすいのがいいなぁ。

22日。糸井重里に指示された古賀史健と燃え殻に攻撃されました。

その際に古賀と燃え殻が横尾忠則さんのツイートを使ったので、事情を知らない横尾さんが加害者側についていると誤解されるのを防ぐために、私も横尾さんのツイートをRTしました。

結果的に私が横尾さんを巻き込んでしまいましたが、それがキッカケで横尾さんもプロジェクトメンバーになって頂きました。

糸井のエッセイはそのことに対するものです。

*参照


↓↓ 23日(横尾さんを巻き込んだ翌日)の私のツイート


↓↓ 22日に横尾さんと知り合うキッカケになったツイート

横尾さんが私をバカにしているように読めてしまうので、横尾さんの名誉を守ろうと考えて、その時の最新のツイートをRTしました。

「糸井、古賀、燃え殻は孤立している」とか「私の方が味方が多い」と読めるような画像だったのは偶然です。

横尾さんに敬意があったら私への攻撃材料に使ったりしないと思います。失礼すぎて呆れました。糸井、古賀、燃え殻を心の底から軽蔑します。

もう1件。糸井がサイコパスではないかと疑ったキッカケを。
SNSでの誹謗中傷に対しての糸井ツイートです。私はどう反応したら良いのか分からず困惑しました。

表裏の激しさに恐怖を感じました。以前からかなり狂っていると感じていましたが、ようやくこの常軌を逸した異常さを表現する言葉が見つかりました。

*念のためPDFで保存したもののスクショを貼りますね。

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