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【海と山の境目】 第9話 コーラを飲んだピエロ

幼い頃の隆志の文集に書いてあった1行に、みんなに笑われるようになりたい、と記されていた。年を重ねるたびに、ピエロが綱渡りをして、揺れ落ちそうになったところで皆なが笑っているのは、ピエロが悪ふざけをしているのを予め分かっているからだと知った。

そんな隆志は、若い教え子から、どんな些細な悩みを打ち明けられた時にでも、助言のカードを引き出しにしまって、自分の存在を消すことに集中した。笑うことを極度に恐れ始めたのも、この頃からだった。笑わずに人の話を聞くことが、どれほど緊張する事かを痛感していた。

自分が、笑わなければならないシチュエーションは、何かを取り繕うとき。まるで、炭酸の抜けた砂糖水となった酷く不味いコーラを飲まなければならない気持ち。それを飲み込みたくないから、できるだけ独りを好み、下手に相手に干渉することを避けるために、悩みの相談では、強く笑うことを禁じていた。

やがて、ピエロが渡る綱の上には存在しないような、自分だけが信じられる言葉を、ゆっくりと前へ進めるために、やっと両腕を広げることができた。もはや、道化師になる必要はなくなると分かった瞬間が、「あの時」、だった。雨音と強く抱きしめ合うことで、バランスをとるための棒は、必要ないことを知ったのだ。

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