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【自己紹介 前編】子供時代-大学時代

最新のアンビエントナビの事業理念(ビジョン)に関してはこちらをご確認ください!


はじめまして。夏目莞士と申します。
この度、noteを始めることにしました。


noteを書く理由は2点あります。


①社内に経営思想や方針変更の背景を落とすため

最近は事業成長と共に、組織の人数も増えて社内のメンバー、一人一人とコミュニケーションの回数が限られるようになったからこそ、アンビエントナビ社の経営方針や、方針変更の背景を複数でも理解してもらえるように社内向けにも記載しようと思っております。

②採用でカジュアル面談を受けてくださる方が弊社の情報にアクセスしやすくするため

こちらも同じく事業が成長フェーズに入っているため、中途採用、インターン・新卒採用を会社全体でも私自身としてもかなり強化しております。カジュアル面談を受けてくださる方がより会社のことや私自身、経営メンバーのことを知っていただけるように、そして理解していただけるように記載しようと思っております。


それでは早速、まずは簡単に自己紹介をさせていただきます。

プロフィール

名前:夏目莞士
出身:愛知県  金沢大学経済学部経営学科卒業
年齢:30歳
役職:株式会社アンビエントナビ 代表取締役社長
兄弟構成: 長男
趣味: 読書、ポーカー、キックボクシング、筋トレ
好きな食べ物: チョコポテトチップス
座右の銘: 人生の飲み友を探す、経営はつまみだ

サイバーエージェントの藤田社長も「社員さんからの現場の声を聞くこと」を目的として社内会食を実施してると聞いたので、それを参考に弊社では代表が全社員さんと3ヶ月に1回、小グループで近くの居酒屋に飲みに行く「社長ディナー」という社内制度を取り入れてます。最初は恐縮されるかと思いきや、社長と話す機会が貴重と言ってもらえて意外と好評のため続けてます。ただそのため夜は社外だけでなく社内の会食も非常に多いので、体型維持といつも闘ってます。仕事の合間を見て、隙あらばジムとキックボクシングに通ってます笑

それでは早速、本編をスタートさせていただければと思います!時間がない方やざっと理解したい方はダイジェストを確認していただいてから読んでいただけるのをおすすめしてます!



◆ダイジェストで読みたい方はこちら


★2017

大学時代に上場企業の(株)フーディソンにて生鮮ECのフィールドセールス経験。学生ながら新規契約部署で社内平均受注率の5倍の数字でトップセールスを取り、自分でもできると勘違いして学生起業。

★2018-2019

実家が60年続く精肉工場をやっていたので、卒業と同時に実家に帰り、生鮮ECサイトの通販に挑戦。ECに挑戦したが、どれも上手くいかず挫折。しかし、コンサルをしていた飲食店にインスタ通販のノウハウを生かして運用したところ、4ヶ月で300万売り上げが増加しこれだと掴む。

★2019-2020

コロナ禍に駅から15分の立地に、飲食店経験0で豚肉バルをオープン。未経験が故にオペレーションがわからず、TV取材を4社呼ぶものの、ブレイカーが飛ぶなどトラブル多発だったが全て放送される。しかし、集客の仮説だけは当たり、オープン1週間で大行列店になる。この勢いのまま焼肉屋を買収して再建。

★2020-2022

東京に焼肉屋を600店舗出そうと思い東京に進出するが、顧問に「顔が焼肉屋っぽくない、IT企業をやるべきだ」と言われ、焼肉屋からIT企業に転身。自身で飲食店を経営していることとSNSマーケティングが強みとなり、オーナー様の現場の気持ちがわかる企業、と口コミで広がり、2年で累計600社以上(業界No1) のSNSを運用支援。

★2023-

2022年のopen aiのchatgptの登場を見て、急速にAI社会が進むと確信して、エンジニア含むプロダクトメンバーの採用を加速して、AI SaaS事業に参入。コンパウンドプロダクトであるパパノAIシリーズをリリース。


①悪魔の番号をきっかけにビジネスを学んだ地獄の子供時代


「伝わらない愛が美学」と考える口下手な父と、マザーテレサ並みに優しい母の元で生まれ育ちました。どんな子供時代かと聞かれたら、実家が精肉卸と焼肉屋を営む中小企業であったため、小学生の時は授業後に焼肉屋で働かされているような子供時代でした。

中学に入ると携帯を渡され、父からの電話番号、通称悪魔の電話番号からかかってきたら、必ず家に帰ってお店を手伝わないといけないという謎のルールがあり、毎日「かかってくるな、かかってくるな」と願い必死に生きていました。

ただ残念ながら電話は友達と遊んでいようが、彼女とデートをしていようがかかってきて、必ず帰宅しないといけないというルールでした。さらに父が『巨人の星』の星一徹並みに厳しかったため、30分以内に帰ってこないと鉄拳制裁をくらってしまいます。当然仕事中も怒られてばかりで、毎日涙を必死に堪えながら、学校から帰ってお客さんのビールを注ぎながら育ちました。

ただ厳しいだけでなく、「このお前の注ぐビールの原価はいくらか知っているか?」といわゆる商売の帝王学も教えてもらいながら育ったため、物心つく頃にはビジネスに対しても自然と興味を抱くようになっていました。

実家の焼肉屋

②〇〇塾の黎明期にインターンをしてITの可能性に目覚める


大学は「国立大学なら家を出ても良い」という父からの条件をもらい、絶対に悪魔の番号からかかってきても、物理的に営業時間内に戻ることのできない場所に住もうと決意しました。そして愛知県の実家から電車で4時間の石川県にある金沢大学に進学しました。

大学に入ったら当然悪魔の番号から電話がかかってくることはなく、門限も無くなったため、完全に自由を手に入れたと思いました。そして学校に1週間で行くことをやめて、大学入学後、すぐはサークルにアルバイト、飲み会ととにかく稼いで遊んで稼いで遊んで、を繰り返しました。しかしどれもすぐに飽きてしまいました。

そんな矢先に高校時代の友達が、「お前に似ているやつがいる」とある友達を紹介してくれました。

紹介された彼は僕と同い年ながら東京の大学を半年でやめて、19歳で学習塾の塾長をしていました。その学習塾は本部は当時2校舎しかなかったのですが、3校舎目をフランチャイズで始めており、その初フランチャイズ先の校舎が、彼が塾長をしていたところでした。


19歳の塾長と23歳のオーナーが始めた校舎です。ただそこはとにかく異質で本部の生徒が30人もいなかったのにも関わらず、その校舎だけは開塾1年で150名の生徒を集めていたのです。

ちょうど大学に飽きていて、自分自身も在学中に学習塾を経営してみたいなと思っていたので、東京に引っ越して乗りと勢いで、彼のところでインターンをすることにしました。このインターン体験が僕の今の会社経営にも大きく影響しています。


今でも覚えているのですが、なんとインターン開始初日にもらった業務が、生徒指導とかではなく、塾のブログ作成でした。


塾長の彼からは「コンテンツは自由何書いてもいいから、1週間で100ブログ書いてみて」と言われて


「100記事!?1週間!? 」と思い、最初は理解が追いついていなかったですが、訳がわからないながらも睡眠時間以外1日15時間ブログを必死に書き続けました。

そしたら不思議とブログを書けば書くほど、なぜこの塾が1年で150名の生徒を集めていたのかが分かってきました。


実はその塾は今でいうSEO対策を徹底的にやり込んでいたのです。2014年だったのでまさにSEOがこれから来るぞという時代でした。


もはや僕が入った塾は、塾のふりをしたWebマーケティング会社だったのです。


ちなみにこの塾こそが、Webマーケティングが日本一上手な塾で今では400校舎を超える武田塾です。

出典記事


僕は奇跡的に武田塾が飛躍する瞬間の現場に立ち会っていたのです。

③学費をかけて20歳で実家の再建に挑戦


ただずっとブログを書いているわけにも行かないので、インターンで学んで自分自身でもWebマーケに強い学習塾を立ち上げようと思って東京から金沢の地に戻ってきました。

しかし戻ってきたと当時に実家に事件が発生します、、、

その事件は大学に入ってからずっと鳴らなかった父の悪魔の番号から電話がかかってわかりました。電話に出ると父から突然言われたのは


「実家の焼肉屋が赤字だから1店舗閉店しないといけない。ただ、閉店したらお前の学費は払えないから学費を自分で払うか、再建させるかどうするか決めろ」


とあまりにも突然すぎる話でした。

正直最初は何を言っているんだと思いましたが、


私の家系では父の言うことは絶対です。当然父に逆らうことはできないですし、自分で学費を払うのも大変だと思ったので僕は二つ返事で「再建させます」と答えました。

実際に自分には武田塾インターン時代の手応えがありました。どうやったら検索順位を上げて、見てもらえる人が増えるかの原理がわかっていたので、愛知の田舎にある実家でも再現ができるのではないかと思っていました。

そしてすぐに実家の検索状況を、ツールなどを使って洗い出しました。そこで分かってきたのは、実家はどうやら口コミサイトの評価は高いにも関わらず焼肉屋でなく、ホルモン焼き屋でジャンル設定されており、焼肉の検索で認知が取れていないということでした。


そしてこれをすぐさま修正し、各媒体の広告の設定などもしたところ、なんと半年間で500万の売り上げが800万まで劇的に伸び、再建どころか創業以来20年間で過去最高の数字を叩き出したのです。

その結果、私は大学の学費も引き続き自分で払うことは免れ、さらには父から成果報酬の手数料として毎月約10万円前後を報酬として頂くことになったのです。


いわゆるプチ不労所得みたいなものを手に入れました。ちなみにこちらは私の卒業後も続き、累計で父から600万円ほどを報酬として頂きました。

④まさかの!?学習塾とカフェを同時開業して、店舗ビジネスに挑戦!



毎月10万円の報酬をもらってアルバイトをする必要がなくなった私は、ついに自分たちで学習塾を経営しようと店舗ビジネスに参入することにしました。


ただ実は学習塾だけに収まらず、なぜかもう一つのプロジェクトも動き始めていました。


それは大学の先輩が「学生だけで集まれるコミュニティスペースがあったら嬉しい」と言うので、それなら「カフェとか作ってみたらいいんじゃないですか」と提案したもので、なんとほぼ同時期に先輩と友人と一緒にカフェ店舗ビジネスにも参入することにしました。


いくら10万頂いているからといって、当然、塾を作るにもカフェを作るにもお金がかかるので、開業資金が圧倒的に足りませんでした。


そこで自分たちで壁を塗ったり、机を作ったり、他にはSNSで「学生が塾とカフェを開業したいです」と投げかけ、地元の方に中古の厨房機器などを頂き、ほぼ無料に近しい金額で集めたりすることができました。


その甲斐もあって、どちらもわずか100万円前後で開業することができました。


もはやこれは色んな人に助けて頂き奇跡としか言えないのですが、この経験が後々社会人になってから、自分たちで飲食店を開業するのに役に立ったなと思います。


お金がなくても始められる、逆を言えばいかに低投資で始めることが大事かというのが身をもって経験しました。

そして実は、この当時にカフェをやっていた先輩と友人、そして塾をやっていた同級生が弊社の1桁社員として入ってマネジメントメンバーとして活躍してくれています。学生時代の友人関係がいかに大事かを今はすごく実感しております。

⑤死生観から人生のビジョンが決まる


しかし、飽き性であった私は店舗ビジネスで何かを成し遂げるのではなく、立ち上げることを目標としていたため、いざ達成してしまうと、時間の経過と共に完全に次の目標を見失っている時期がありました。

そもそも何で始めたんだろう?自分は何をやっているんだろう?と自分の中で目標を失っている自分に気づきました。

つまりは今思えば、自分の人生にも、そして関わる組織にもビジョンがなかったのだと思います。

そして日に日にその思いは強くなっていき、挙げ句の果てには何もやりたくなくなりました。そしてついには朝起きた時に、今日は何のために生きていけばいいんだろうと考えるようにまでなっていました。もはや気づいていなかったのですが、鬱みたいな状態だったのでないかと今なら思います。

ただ自殺とかを考えたわけではなく、根はポジティブであったので発想を変えてみようと思って、ある一つのことを決めました。

そのある一つとはすごくシンプルですが、「生きる理由」を探すのでなく、「生きた理由を残して死ぬこと」が自分のゴールではないかということです。


そこで自分の人生の中で初めて「生きた理由を残して死ぬ」というビジョンが決まりました。


しかし生きた理由とは何であるだろう??

そう自分に定義して何度も考えるうちに、


生きた理由=自分が死んだ後にも残るものだと明確な定義ができるようになってきました。

では一体私が死んだ後に何が残るのだろうか?当時、私は目の前にあったペットボトルを見ながら考えていました。


そしてそういえばペットボトルを開発した人は誰だろうとふと気になって調べたら、アメリカのデュポン社の「ナサニエル・ワイエス」だとわかりました。100年前に生きていた写真のおじいさんです。


出典記事


そして調べるとワイエスはペットボトルの元となるPETという素材を開発して、特許を取って、一生遊んで暮らせるくらいのお金を稼いだことがわかりました。でも残念ながらもう100年前の人なので死んでしまっています。


このことから私は考えました。一度死んでしまったら復活することはもちろんありませんし、当然ですが、財産もその人には残りません。そしてペットボトルのことは知っていても、誰もナサニエル・ワイエスの名前を知る人はいません。


この原体験がすごく自分の人生に影響してきました。


みんな社会に出て、たくさん働いて、いい役職について、お金も稼ぐと思います。でも残念ながら死んだら地位も名誉もお金も何も残らないじゃないかと。私は当時、この価値観に気づいて、地位と名誉とお金を求めて生きるのはやめようと思いました。


ちなみのこの考えを提唱しているのが私のバイブルでもある「DIE WITH ZREO」という本です。2020年に本として出版され、現在は新しい経営者の愛読書として注目されています。今後少しずつこういう価値観の人も増えてくるのでないかと思っております。


出典記事


話を戻すと、ペットボトルの話の中で唯一残っているものはなんだろうと考えたら、それはペットボトルだと気づくこともできました。


そしてペットボトルというのはただのプラスチックのボトルではなく、「自分の好きな飲み物を好きな場所で飲んで、飲み終わったら捨てることもできる」ようにしたまさに電気、水道、ガスと同じ社会インフラだと私は思いました。


ペットボトルは、ナサニエル・ワイエスが亡くなった後でも100年以上続きますし、これからも残ると思います。そのため、私はワイエスがペットボトルを開発したように、人生をかけて「社会インフラを残して死にたい」と自分の中で生きる理由を定義できるようになりました。


⑥毎日、悔し泣きしながらBtoB営業と戦う



では、次はどうやってインフラを作ればいいのか?


自分の中でそもそもインフラとは何だという明確な定義が必要だと気づきました。

私は、基本的に目標に到達するためには、数字で進捗を追って可能な限り目標とのギャップを可視化したいと思っています。そこで、インフラとなる数字はなんだろうと調べていくと、どうやらビジネスには時価総額という企業価値を測る指標があるということに気づきました。

まさに会社とは社会をよりよくしていくための共同体。つまり会社の価値が上がれば上がるほど、会社の創り出す事業が社会インフラになっていくのではないかと考えました。

それならば、できる限り生きてる間に企業価値の高い会社を作ろう、と明確に自分の人生の目標を定量的に定義できるようになりました!

しかし、実際いくらになったら社会へ貢献できる価値になるのかわからなかったので、


人生かけてやるのだから業界で1番企業価値が高くて、自分の人生の生い立ちに関わるものが覚えてもらいやすいですし、わかりやすくて良いのではないかと思いました。


そこで、自分の実家であった精肉業界の時価総額を調べてみました。すると、家庭でお馴染みのシャウエッセンや日本ハムファイターズを傘下に持つ日本ハム株式会社が時価総額5000億でトップだと気づきました。


ちなみにこのnoteを記載してる9/14時点でも4750億円あります。


出典記事


そのため、自分自身としては「時価総額5000億を超える企業を作ろう」そして「日本ハムに勝つ企業を作ろう」と明確に定義することができました!


そこからは、ではどうやって勝つことができるのか?と思い、まずは日本ハムに入るのではなく、人に教えてもらう方が効率が良いと思ったので、次の日本ハムを超えるベンチャー企業はどこだろうと生鮮業界で資金調達状況の多い2社を調べることにしました。


そこで出てきたのがアメリカの肉の定期便をしてるBUTCHER BOXと日本で鮮魚のBtoB×ECをしてるフーディソンの2社です。どちらにもメールしました。


しかしどちらも会社HPからメールを送っても返ってきませんでした。


しかし諦めきれなかったので、会社の採用ページ、社長のFacebook、社長のメッセンジャーとありとあらゆる連絡先に「ここで働かせください!」と問い合わせしたら、結果的にフーディソン社長の山本社長からお返事が来てインターンをすることが決まりました。


出典記事

ちなみにフーディソンは当時、積極的にインターン採用をしておらず、yahoo、リクルート、DeNAなどの大手IT出身の方ばかりで、学生は私だけという状況でした。


そして私の学生時代2回目のインターン生活が始まりました。


またしても忘れもしないインターン初日です。社員さんからのガイダンスがあるかと思っていたのですが、初日からマグロの部位が書かれた1枚の資料とトークスクリプトを渡されました。


そして先輩から「このスクリプトを見て電話かけてみて」と、一度もやったことのない新規の営業電話をするよう言われました。


電話!?これで!?と衝撃を受けました。

まだ立ち上げて数年だったので、トークスクリプトは本当に「お世話になりますフーディソンです。築地で魚屋やってます。」としか書かれていないようなトークスクリプトでした。


いくら自分たちで店舗を立ち上げたとはいえ、営業電話は人生で一度もしたことがありません。ましてや魚の知識もなければ、営業の知識も当然ありません。


ただそうはいっても、全くわからないながらも電話をかけるしかありません。


そのため。手が震えながら、そしてビビりながらも受話器を持って初めての電話をかけました。


一発目の電話は、営業電話をしたことがなかったのでお店の方に「お世話になります」ではなく「もしもし」から始めてしまい、同じデスクの社員さん全員に笑われてしまったのを今でも覚えております。


そんな状態からの営業スタートでした。ただ気合いだけは入っていたのと、こんなことになると思っていなかったので入社初日の挨拶で「2ヶ月で営業No1になります」と宣言して入社してしまいました。


甘えたことは言っていられません。何もわからないながらもとにかく電話をし続けました。


ただ、とにかく何もわからないまま電話するので、「お前、築地のどこのもんや、何番や」と絶対に築地にいないとわからない内容で怒られたり、質問されても答えられず先輩に確認しようと保留にしていたらすでに切られていたりと、そんなことばかりでした。


最初の頃は、電話の受話器を握ることが本当に怖かったのを今でも覚えています。


努力は誰よりもしようと頑張りましたが、1日100電話を3日連続でかけても3000円のお試しマグロセットを1セットも売ることができず、
悔しくて、帰社しているときにいつも母に「なんで僕は売れないんだろう」と泣きながら相談して帰っていました。


ただ、自分の中で努力と同じくらい誰よりも改善をしようと思っていたので、毎日日記をつけたり、「イタリアンは昼の時間帯はランチで出られないけど、午前は出てくれる」「逆に和食は夜の仕込みもあるから昼時の時間も出てくれる」みたいに毎日、自分専用の分析シートみたいのをスプレッドシートに記載していました!


そしてこの分析シートを使っていくと少しずつですが、結果が徐々に出てきてました。そうは言っても当然ですが、3,4ヶ月経ってもなかなか1番は取ることはできませんでした。


そこでそもそも、自分のトークはもちろん課題としてありますが、営業の仕組みに課題があるのでないかと疑問を持つようになり、リストの見直しをするようになりました。


当時は鮮魚ECを謳っていたのですが、新規に関しては電話やFAXのみで販売をしていました。しかし冷静に考えてみたらECサイトは、会員登録しないと見ることができない非公開のサイトであったため、会員登録をしているが、一度も購入したことのない会員がECサイト内にいるのでないのかと疑問を抱くようになりました。


ただ、どうデータを集めればいいのかわからなかったので、エンジニアの方に確認すると、肝心のECサイトのデータを読み取り、関数で落とすためにはSQLというデータを扱うプログラミング言語の取得が必要だとわかりました。


こうなったら、データ読み取りのプログラミングを覚えるしかないと思い、就業後にプログラミングスクールに通うようになり、インターンとプログラミングスクールをはしごする生活が始まりました。


そして概要がわかってくると会社内のエンジニアの方にも相談しながら徐々にSQLを叩いて、ECサイト内のいろんなデータが読み取れるようになってきました。


そしてその読み取ったデータを


①購入回数0回
②累計ログイン回数 昇降順
③ログイン履歴 最新順


の検索条件に絞ってスプレッドシートで関数を叩くと、


なんとまだ一度も購入したことはないけど、購入を迷っている、購入に対してかなり前向きであるという方だけのリストを作ることができました。

早速このリストに電話してみました。そして面白いことに


「お世話になります、魚ポチを運営しておりますフーディソンです」と電話すると


「え!?魚ポチ!?さっき見てたよ!!」


と、みんな驚いて反応してくれます。


それは当たり前です。なぜならばリアルタイムのログイン履歴の最新順に電話をかけているので、サイトをさっき見ていたというのは私は知っていたからです。


ただ私も、それをそのまま伝えるのではなく、


「え!そんな運命ありますか!?」


と自分自身も本当に驚きながら伝えておりました。


そして、お店の人は購入を悩んでいたので、


「担当者の人に出会えて運命だ!」と驚きながら伝えてくれて、今まで売れなかった魚たちが飛ぶように売れていきました。


そして最終的にはこのリストのおかげで、新規営業で当時の社内平均受注率6.6%に対して、私は約5倍の33%の平均受注率を達成して、数ある社員さんの中から社内No1を取ることができました!


フーディソンのインターンではいわゆる営業だけではなく、自然と営業マーケティングのようなことも学ぶことができました。


また、私は「1番になったら社長にマネージャーにあげて欲しいです」と入社時に伝えていました。


そして実際に1番になったのでお願いをしたところ「それはまだ難しい」という判断でした。


しかし、今ならこの判断がよくわかります。いくら1番になったからと言って、マネージャーにするのはかなり難しかったのでないかと思います。会社はあくまでも全体最適が必要だからこそ適切なポジションやタイミングがあります。学生の私をマネージャーになんて到底難しいことです。さらには、私の成長ステップのためにも適切な判断だったのでないかと今は思っています。


しかしその当時の私は何もわかっていませんでした。それは話と違う、となり、インターンを辞めて自分でもできるのでないかと思い、卒業間近でだったのですが、就職せずに同じような精肉×ECの事業で起業の道を決めてしまいました。

・・・ただこの安易な勘違いが後々地獄の3年間になるとは当時の私は全く気づいていなかったです。

ちなみに余談ではありますが、インターンを辞めた後に「新しくHR事業を立ち上げるから社長直下でどうですか?」と新規事業のオファーは頂けたので、ちゃんと約束は果たしてくれたと私は認識しており、今でも山本社長は僕の憧れであり、尊敬する社長です!


長くなってしまいましたが、子供時代〜大学生時代はここまでになります。最後までご覧頂きまして本当にありがとうございます!


続編の中編はこちらから読めるようになっております!

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