デザイン

今朝デザイン関係の話をしながらふと気付いた事がある。

以前、きっと私に褒められる事や賛同だけが目的で話しかけて来た方がいる。

しかしどうも上手く話しが進まないし噛み合わない。終いには「貴方の話しは自分の事ばかり、」と相手の話を聞きながら会話をしていたのにも関わらず、とても腹を立てられてしまった。

あの様にして怒られたのは人生初だったので正直とてもビックリした。自分の話ばかりなど、その様なつもりは一切なかった。

それを機に、後々「何故その様に捉えられてしまったのだろう?」と色々考えてみたり、会話について書いている人の文章を読んでみたりした。

結論から言えば、先にも書いた様に相手は問題の解決は求めておらず、客観的視点からの分析も必要とはしていない。ただ単純に承認欲求を満たしたかっただけなのだという事に気付いた。

いわば女性脳寄りの方は共感を求める割合が多く、男性脳の思考に寄っている方は目的達成の為に行う問題解決の方法を求める事が多いという様なものだと思う。

それについて今朝は新しい発見があった。

何故私のベースとなる思考回路は共感よりも理性の解決手段の方へと行ってしまうのか。正直これは長年蓄積された教育の背景と深い関係があると考える。

私は意外かもしれないが、デザイン関係の学校へ行っていた。そこで養われたのが先ずは改善点を見つける、という目と思考回路。デザインの根本にあるものはビジネスと同じ様なもので、問題の解決である。

毎回出される課題は一般的に答えを探せば答えは基本1つだけな数学や歴史の様なものではなく、明確な正解は存在しない創造的な世界。全ては感性という名の主観で決まる。

故に、自分が提出した課題について改善点や意見が飛び交うのは日常茶飯事。肯定的意見をもらう事の方がレア中のレア、というのが当たり前な環境に長くいた事によって、客観的や一般的な人の解釈からすれば、ある種の欠点や落とし穴探しが得意、あるものよりも無いものに目がいく、という結構嫌なやつにいつの間にかなっていたと言える。

では何故今まで上手くいっていたのか。別に友達が少ない訳でもなく、長い年数の付き合いな友達も数人いる。

考えられる事はいくつかある。1つは私の周りがそれを寛容出来る広い心かそれに対する何かがあったのだと思う。もう1つは、同じ様な思考回路を持っていてそれが平気な人。

ここで気付かされた事がまだある。時に人は自分の好きな方向へ進みがちで、似た者同士で集い易い。所謂安全圏で身の周りを固めがち。

偶には居心地の良い場所から離れて、違った価値観などに触れ合う機会も必要だと改めて思い知らされた。

似た様な価値観ばかりの人達で集まるのは楽しいけれど、それが基準値になってしまった途端に別界隈では途端に通用していた「普通」が普通ではなく、受け入れられない事もあるのだという事。

何処にいるのかは自由だけれど、色んな価値観と触れ合って色んな人がまだまだいるのだと知っておく事の大切さを身をもって感じた期間。

頭では理解していたり、書物で知った事があり、知識として蓄えておいても、いざ実践となると中々応用出来なかったり、想像と違ったり。

違う世界の人からすれば別世界な事も、当人達からすればそれが現実世界だという事。

一知識として浅く認識しておくのと、身をもって実践し深く知る事。何事も経験が大事。

2019.06.09 執筆

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