of the 科学, by the 科学, for the 科学.

4月16日(木)現在、新型コロナウィルスで世界情勢は大変なことになっている。そんな中で医療関係者は治療や特効薬の開発に尽力してくださっているし配送業の方々やライフライン関係の仕事の方は相も変わらず働いてくださっている。本当に有難い。自分達個人も少しでも早い状況の沈静化のためできることをするべきだ。

ところで私は京都のとある大学の学生である身分なのだが、自身の大学含めほとんどが休講・オンライン授業等の措置をとっている訳で、なんとまあ有難い話こんな自分とも仲良くしてくれていた友達や可愛がってくださっていた先輩方とも会えない日々が続いている。正直に言って寂しい。一人の時間は好きだが一人で生きていけるとは一言も口にしていない。程よい他者との関わりが人間健全な精神状態を保つためには大事なのだ。だれがぼっちにしろと言った。ぼっちも嫌いじゃないがこう長いのは困る。あとこの春には自分も回生が上がり、後輩との新たな出会いがあったはずなのだ。履修登録の質問がバンバン来る。対面でリアルタイムでやり取りした方が伝えやすいのに。新歓イベントもないんじゃ新入生は不安だろう。自分だったらと思うと怖くておちおち夜も眠れない。まあどうせ夜通し音楽聴きながらSNS周回しているが。



さて、前置きが随分と長くなったが本題に入ろう。まあ別に今語ることでもないのだが。時間があるのでここに普段思っていることを書き記していこうと思う。

科学。まあ当たり前に人間生活のすぐそばに存在している。あ、ここでいう科学は人文科学、社会科学、自然科学諸々含めた広義的な科学のことを指していると思っていただきたい。皆さんはこの科学とかいうものに何か思うことがあったりするのだろうか?

ぶっちゃけた話、科学に対して私はある種嫌悪と言っていい感情を抱いている。学生として学問を修める立場でありながら何を言っているのかという話である。自分もそう思う。先程述べたように人文科学、社会科学、自然科学等、今や何にでも科学という言葉をつけて学問化し、科学的根拠が求められ、それがあれば信用が得られるような世の中に生きているのに、である。

冒頭で話した新型のウィルスに対してもその研究や治療に用いられているのは、少なくとも日本では科学技術だ。配送に使用されるトラックや電気、ガス、水道の供給も科学的な装置や原理を用いたものだ。オンライン授業をやるに当たって資料の提供や映像の公開、またその通知でメールを送信したり、これが科学技術だというのは皆さんもお分かりだろう。SNSや音楽の録音更にはストリーミング再生なんてのもまさしく科学技術の進歩故為せることだ。人との関わりを求める心理なんかも科学的に解明されているだろう。この辺は詳しくないので調べておく。

が、そこでだ。調べておく、と言ったがこれもまあ本なりネットなり、学者が科学の世界で研究したことを元に発表されたものを見ることになる。それが正しいんだなと思って私はそれを記憶するわけだ。

ここまで全部科学だ。まあ広義的に捉えすぎかもしれないがこの一連の流れのどこかに魔術が潜んでいるかと言われたら誰もそこまでは思わないだろう。知らんけど。

みんな科学的なものであった訳だ。別にここで何の疑念も抱かないだろう。みんな科学的な技術を信用し、あるいはその信用があるから故にそれらは社会に浸透していく。水が高いところから低いところに落ちるのも当たり前でそれが何故か調べてこいと宿題が出されればこれまた本なりネットなりで重力のことやらなんやらを引っ張ってきて科学的に答えを導き出す訳だ。私も当然そうしてきた。小中高の授業で散々問題を解いたりした。魔法の扱い方なんて習っちゃぁいない。科学的な理論や原理だったりを習った。神が決めたから言葉はこう、なんて教え方する先生はいない。古典だろうが現代文だろうが外国語だろうがちゃんと単語と文法があってそれで文章が出来るんだ。たまに先生の小話や教科書すみっこのコラム的な何かでその言葉の生い立ちまで紹介されたりする。


こんな中で、中学校3年生も後半、高校受験期にはうっすら考え始めていたのがこんなことだ。

-こんだけ科学技術が信用されて科学的根拠が求められてるけどじゃあ『科学』そのものの正しさって何が保証する訳?-

私なりにちょっと考えた。まあ私もまだ20年も生きてなけりゃオツムの出来が特段良い訳でもない。拙い脳ミソだがそれなりに考えてみた、その現段階の結論はというと、それも『科学』なのだ。

物理や化学の複雑な現象を解明するに当たって数字の世界、数学を用いて解明することがあるように、その次元はいくつか別の方へ移ることはあれど科学の正しさは科学で説明されるのがこの世の中だ。少なくとも私は科学的な説明を魔術的に説明し直しそれが認められた前例を聞いたことがないし多分それをしようとする行為が普遍的ではないはずだ。

科学は正しい。少なくともそう見える。聞こえる。そう感じさせてくれる。科学的なら安心できる。でも科学を説明しうるものがないのだ。そう考える私は科学そのもの、引いてはそれをこと細かく分類して深く掘り下げていく『学問』という存在も好きじゃないのだ。

別に魔術の存在を信じている訳ではない。剣と魔法の世界に憧れを抱いているのでもない。勘弁してくれ。そのものが嫌いでもその産物まで嫌ってるなんて言ってない。Twitter最高。音楽万歳。コーヒーウマウマ。医療とライフライン発達のお陰でこうして元気に生きている。ありがとうございます。因みにどの業界からも金はもらってません。

まあつまり、科学が正しいつったって科学そのものの正しさは科学以外で示せないでしょってことが言いたい訳で。「科学は世界の真理!科学が森羅万象を説明する!」っていくら叫ばれてもじゃあなんでそう言えるの?って尋ねて根拠が科学じゃあねぇ。堂々巡り。無限ループ。科学オ○ニーやめろって言いたい。



こうして思ったことを綴った訳だが、このnoteというシステムもまた、科学の上にあるものであるし、私がこうして使っている言語も科学的に説明されうるだろう。こんなことを書いた私の心理も、学問として研究された中で解説できてしまうのであろう。科学的なことを科学的に学ぶ社会で生まれ育ったんだ。科学的な考え方が脳に蔓延っているしいくら自己流で考えようにも根底にあるのはそういう科学の社会で見聞し感じ生まれたものにすぎない。そんな社会で生きた人間によって生み出されたそれがどれだけ革命的で逆転的な発想であろうとそれが"科学を越えた何か"であることはないのだ。

これからもこんな感じで考えていることやもやもやや心に秘めたことをつらつらと書き連ねるかもしれないが全部独り言である。皆さんとか途中に出てくるがこれもまた思いを晒けて気持ちよくなってるだけの自家発電なのだ。恐らく。独りでぶつぶつ呟いて語って、たまに吠えることもあるだろうが今回はこの辺で終えるとしよう。もしここまでお付き合いいただいた方がいるのなら、やっと話が終わります。わざわざありがとうございます。と言うと共にこんなん読む暇がありゃ勉強するか推しに貢いで経済回せと言いたい。では今度こそこの辺で。また。

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