第3話
住宅街の一番外れにある、ひっそりと佇む古い洋館。
建物には蔦が這っており、小さな庭は手入れがよく行き届いていた。屋敷の書庫で、キングは本を読んでいた。
パタン
10センチはあろうかと思われる本を、半日で三冊を読み終えたキングは廊下へ出た。壁に飾ってある家主の写真を見る。
名はヘッゲル。鉤十字党上層部まで上り詰めた男だった。
横にある美しい少女の写真に目が留まる。透き通る金髪とエメラルドグリーンの瞳。キングは少女の写真を暫し眺めると、館の中央にある螺旋階段を見上げた。
カシャン!
「ええい、何度教えたら分かるんだ! お前がゲルマだと言うから雇ったのに。紅茶も入れられんのか!」
「申し訳ございません、旦那様」
ガラス片を拾い上げていたメイドは、指先を切って顔を歪めていた。部屋の前に立っていたキングは、メイドを一瞥してそのまま通り過ぎ行った。ヘッゲルの方へ笑顔で歩み寄る。
「来たかね、キング。そこのメイド! 何でもいいから飲み物を持ってこい!」
「かしこまりました、旦那様」
キングに会釈したメイドは、足早に部屋から去っていった。
「全く、頭のトロい女だ」
酷い言葉を吐き捨てながら、ベッドの上で片手を左右に動かしていたヘッゲル。彼の手をそっと握ったキングは、耳元で優しく囁いた。
「旦那様、ペンダントはこちらです。落としてしまわれたのですね」
「すまんな、キング。盲目はこれだから困る」
エメラルドの装飾が美しいロケットペンダント。首に戻してやると、ヘッゲルはキングの顔をなぞり始めた。
「ああ、なんてきれいな顔なんだ。髪と肌は? 目の色は? 教えてくれないか」
「父は、僕をアルビノと形容していました。瞳の色は……きっと旦那様のお好みではありません。ブルーです」
惚けた顔のヘッゲルがキングのシャツを弄る。白い肌がすっと離れた。
ヘッゲルは少々気まずそうに咳払いをすると、話の矛先を変えた。
「そう言えば、本はどうだったかね」
「今日は三冊、読ませて頂きました」
「あんな本を三冊も読んだのか? 全く賢い少年だ。最初に書庫を見せてくれと現れた時は、警戒したがね」
「僕には両親がいないんです。学校へ通い始めたのも最近ですから。知らない事が多くて」
キングはベッドに近寄ると、彼を抱きかかえて車いすへと移乗させてやった。
ヘッゲルは90歳を優に超えている。それでも歩けなくなった以外さしてどこも悪くないのは、繰り返し行った臓器移植の賜であった。
「ありがとう。そうだ、面白い話をしよう。現実主義の君は信じるかな? 死神の存在だ」
「死神、ですか」
「わしは目が見えんじゃろう。左腕もない。これは死神と取引した結果、と言ったら、君はどう捉えるかね」
キングは車いすを窓際まで移動させると、一言「信じますよ」と囁いた。
その時、小さくドアをノックする音がして、トレイにカップを載せたメイドが戻ってきた。
◆
「わしを殺したがっている連中は多い。戦後、この国へ逃れて来てな。慎重に生きてきたが、2回だけ絶体絶命の危機があった」
「その危機に、死神が現れたと」
「そうだ。目と左腕は取引の代償、という訳だな」
「旦那様、ココアをお持ちしました」
「ノックぐらいしたらどうなんだ! 何がココアだ。それしかマトモに作れないクセして」
メイドは不条理に怒鳴りつけられて顔を強張らせていた。
「僕、紅茶よりココアが好きだな」
メイドは少し驚いた顔でキングを見つめた。盲目のヘッゲルは不快感を丸出しにしていたが、キングの言葉を無下には出来ない。彼女を無視して話し出した。
「本当に使えない女だ。見た目もきっと醜いぞ」
「彼女は最近雇ったメイドですか?」
「ああ。終戦直後のゲルマで生まれたと言っていた」
「なるほど。僕、ゲルマ語が読めないんです」
ヘッゲルの手を取ったキングは、わざと自分の顔に這わせた。下卑た笑みを浮かべた老人が、欲情を露わに撫でまわす。
「キングの顔を触っていると、エマを思い出す」
「写真の少女ですか?」
ヘッゲルは、ロケットペンダントを握りしめ頷いた。懐かしげな表情でエマという少女の物語を語り始めた。
「鈎十字は悪い事ばかりしてきた訳じゃない。特殊な才能を持つ子供達を施設に保護して、面倒を見ていた。その一人がエマだは、彼女は賢く才能に溢れた……とても美しい少女だった」
「エマは、どうなったんですか?」
「死んだ」
「……ガス室送りになったのですか」
「違うな、キング。彼女は生粋のゲルマだ。それでも何があるか分からないのが戦争なのだよ」
「そうですか」
「……子供達は全員、肺炎で亡くなったと聞いた」
ヘッゲルはキングの纏う雰囲気の変化に気づいて、顔を揺り動かした。冷たい風と共にレースカーテンが揺れて、老いた顔をなでつけてゆく。
今までとはまるで別人のようなキングの声が、部屋の中に響き渡った。
「……エマに会わせてあげますよ。僕、死神なんです」
風が一段と強くなり、ティーカップの転がり落ちる。ヘッゲルはキングが死神だと確信していた。
キングが纏っているのはまさに死の気配、そのもの。
キングは白マント姿で大鎌を担いでいた。無表情なままヘッゲルを見やると、ふわりと宙を浮いた。そして眼球を掌に落とすと、ヘッゲルの鼻先に差し出した。
「エマとはどうやって会うつもりだ? 死んで夢の中というのは御免だぞ」
「旦那様が取引をしたのは、間抜けな骸骨男では?」
「その通りだ。まさか、死神を乗っ取ったと言うのか」
「ええ、ご察しの通り」
「キング、君は素晴らしい! 悪そのものだ。取引をしよう! 見返りは何がいい」
「僕は……英語以外の本も読めるようになりたい」
「そんな事で良いのか? 私の養子になるといい」
キングは眼球を舌の上に載せると、怖気立つような笑顔で宣告した。
「ヘッゲル。取引は、成立だ」
◆
ヘッゲルは、急に眩しさを感じて目をすぼめていた。最初はぼんやりと。だが徐々に見える鮮明な世界。彼は自分が視力を取り戻した事に気づいた。
「見える、見えるぞ! ありがとう、キング!」
ヘッゲルの悦びとは対照的に、部屋はシンと静まりかえっていた。ふと、人の気配を感じる。振り返るとそこにはエマが立っていた。
透き通る美しい金髪、エメラルドグリーンの瞳。
老いた瞳に涙が浮かんだ。
「おお……エマ。私のエマ。君だけは助けたかった。いけない事だと分かっていた。それでも、幼い君を愛してしまったんだ。抱きしめさせてくれないか」
エマは冷徹な瞳でヘッゲルを見下ろし、そして真実を告げた。
「違うわ。私はエマと貴方の娘よ」
ヘッゲルが見たエマ。
はたしてその正体は、あのメイドだった。
年齢はそれなりに重ねていたが、メイドの顔はエマと瓜二つだった。
取引通り、ヘッゲルはエマとの邂逅を果たしていた。
メイドはヘッゲルを突き飛ばすと、車いすごと転倒させた。すかさずペティナイフを突き刺す。ヘッゲルに馬乗りになったメイドは、叫んだ。
「愛していたですって? 貴方が母さんを犯し続けて出来た子供が私よ!」
信じられないという面持ちでヘッゲルがメイドを見る。メイドはペンダントを引きちぎり、目を潰した。叫びが屋敷に響き渡る。
「肺炎? 冗談じゃないわ。疫病にどれだけ耐えられるか、実験していただけじゃない! 貴方は人殺しを楽しんでた。笑いながらガス室の人たちを見てた!」
メイドは、ナイフが折れてしまうまで刺し続けた。
「もう死んでるよ」
キングに声をかけられ、ようやく我に返ったメイド。彼女は絨毯に突っ伏すと、声を上げて泣き始めた。
「私の命を持っていったら? 私は人を殺したわ」
「僕だって両親を殺してる。それに、君とは取引してない」
メイドは唇を震わせながらキングに懇願した。
「なら取引して。私を母さんの元へ連れて行ってほしいの。もう、生きてなんかいたくない!」
悲しそうな顔をしたキングは、暫くメイドの顔を見つめていた。しかし、彼女の決心が揺らがない事を悟ると、彼女に向かって手をかざした。
身体が崩れ落ちて動かなくなる。
再び意識を取り戻した時、彼女は何者でもなくなっていた。
「街はずれにこんな屋敷があるなんて知らなかった」
「キングの親戚が住んでたって話だぜ」
「なんで過去形なの?」
「親戚、亡くなったとか言ってたけど」
屋敷を訪れていたキングのクラスメイト達は、手入れの行き届いた庭を抜けてドアの前に来ていた。ドアベルを鳴らすと、すぐに愛想の良いメイドが出てくる。
「坊っちゃんのご友人ですね。いらっしゃいませ」
「ありがとう、エマ。後は僕がやるよ。さあ、皆さん。どうぞ」
メイドの肩越しにキングが顔を覗かせていた。エマと呼ばれたメイドはにこやかに会釈をすると、キッチンへ下がっていった。
「すげえ、メイドいんのかよ……」
思わず声を出してしまったクラスメイトに、キングがおどけた口調で続けた。
「この家にずっと仕えてくれた人なんだ、エマは。僕一人じゃこんな家、維持出来ないって」
肩をすくめてみせるキングにクラスメイト達がドッと賑わう。
屋敷の主人となったキングは、全ての記憶を失ったメイドを見ると、切なげに目を伏せた。
僕は、何があっても諦めない。
どんな手を使ってでも、取り返してやる。
消えた、子供たちを。
「おーい、キングー!」
「今、行くよ」
キングはエマの後ろ姿を見つめながら、小さい祈りを捧げた。
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