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自己批評

深夜東京。自宅の外階段で夜風にあたる。紫炎をくゆらせ、思索にふける。そんな常日頃である。

3年前

大学生になり、「退屈」さが私を襲った。東京という煌びやかな場所まで出てきて、日常が果てしなくつまらないと感じた。

幼い頃から「何者かになりたい」という気概があったが、所詮それは一時の夢に過ぎないと確信した。

このまま進んだらどうなるだろう。某大だし結構いい企業入れるのかな?結婚して子どもが生まれて、マイホームを建てて....仕事リタイアしたらゆっくり海外旅行でも.....

十分に幸せだと思う。しかし、社会のレールに敷かれて一生を終えるのだと気づいてしまった。予測可能性に満ち溢れた人生だと判明した瞬間、深く絶望した。そして、自分にとって学問などもそのための手段だと気づいてしまった。

とにかく、「退屈」から逃避したくて仕方がなかった。

2年前

「退屈」からの逃避を求めた私は、「早稲田大学探検部」とかいう意味不明なコミュニティの門を叩いた。部の存在を知ったのはTwitterである。

部の説明会に行ってみるとボロボロに破れたレインウェアに下駄の格好の部員がいた。彼は鬼殺しを飲みながら、意気揚々とヒマラヤ遠征計画の話をしているのである。一方、机を挟んで反対側には別の部員がいた。かなり美人なこの女子の先輩は、春にボリビアで6000m峰に登っていたらしい。そのインパクトが悶々としていた当時の私には余りにも強烈過ぎた。

探検部に入部するには、「日本一クレイジーな新歓合宿」と「入部式」という2つのイニシエーションを乗り越えなければならない。前者は、孤島で3泊4日、テントや電子機器、火器を使わずに地図読みでレースを行うものである。後者は、新入生が「自分にとって『探検』とは何か」を語りその倍以上の時間を先輩に罵倒される行事である。

ところが、私は新歓合宿の期間を労働に費やしたため、新歓合宿に参加しないまま、入部式を迎えることになってしまった。入部式はトップバッターで喋ったことは覚えている。結構シャバいこと言ってたなぁぁ。

ともあれ、入部は出来たが。探検部。不思議なコミュニティである。巷のサークルでよくあるノリは一切ない。酒を飲む時も乾杯すらしない。そういう風潮が嫌いな人間が多いらしい。先輩はみんな文学とか映画とかアカデミックな話ばかりしている。「探検」とは何だっていつも言っている。自分の世界線とは全く別の観念。共通言語を持たない悩ましさ。はっきり言って、掃き溜めであり、鬱なコミュニティである。だが、「退屈」を言語化し、解消しようとしていた私はこのコミュニティに賭けることにした。

探検部一年目。自分の活動も出来たし、そこそこ充実してはいた。年度末のミーティングでは、「探検部解体論」を吹聴する先輩がいて、何言っているのだかさっぱり分からなかった。(多分今は分かる。)

この頃、恋人がいた。まぁ良くなかったなぁと今では思う。結果的に探検部の陰鬱さから逃亡して、彼女に依存する形になってしまった。恋愛と探検部が共存出来ないとまでは言わないが、自己同一化が出来ていないのに恋愛してしまうのは悪手であった。何故なら私は甘えん坊だから。。

1年前

新歓合宿のレースで惨敗した。地図読みよりも、リーダーシップが取れなかったことが原因である。敗北の代償は重かった。

合宿の帰り、大きな節目があった。同期のD君に「雨谷、満洲行かん?」と誘われたことだ。彼の企画した中国遠征は私と彼がビザを取らなかったためおじゃんになってしまったが、これは大きかった。

遠征もそうだし、何より彼が遠征のプレゼンを発表した際の文章に心を動かされた。以下、彼の文章を引用する。

"(前略) メタ的な自己は刑吏であり、彼の言動   が多方面に対し不備がないかを見定めている。そして、呼びかける。お前を出荷する時が来た、と。メタ的な自己は割り切った思考をしているが、それは全くくるいなく、隙を与えなかった。

彼はそいつについて歩いて行って大学を出て、坂を下っていく。彼のメタ的な自己は監視する親だった。二十歳になれば社会に出せる、大学を出れば国に出せる、彼はそれを愛情だととってきたが、彼の何ものもその愛情では変わらなかったに等しい。

ただ、狂気だけがドクドクと息を吹き出し、「そいつをお前は食える、今なら間に合う」とささやきかける声を思い出しながら、目を上げると「私」の顔がくっきりと目の前に置かれていた。(後略)"

この文章を読んで感銘した。「メタ的な自己」は「3年前」の私であり、「私」こそが私を探検部に導いた正体であると。

思いや悩みを言語化し、外的な身体活動として発露出来ること。冒険ないし探検的活動の素晴らしさに気づいた瞬間であった。

この頃からだろうか。言葉を大切にするようになった。大学に入ってから余り読書をしていなかった。知の海に浸り、他者の経験に学ぶ。分からないことを自分の言葉で上手く表現する。その素晴らしさを取り戻せた感じがした。そして、学問をすることそれ自体に魅力を感じるようになった。

逆説的だが、アウトドアサークルたる探検部に入って、失いつつあった日常の復権が出来たように感じる。

失敗に終わったが、白神山地の通行困難歩道の縦断を行った。探検部の先輩の紹介で富士山のガイドも始めた。富士山では、同世代の山岳部、探検部の人間と関わることが出来て非常に有意義な期間でもあった。夏休みはインドで熱を出し一人涙した。少しではあるが、厳冬期の登山もした。これからが大事である。

そして、現在

私は今、探検部の幹事長(主将的存在)を務めている。中々難しい。探検部は組織ではなく、集団に過ぎない。部活とかビジネスといった通常の組織で求められるリーダーシップは各論の範疇である。自分の言葉の力で脆い集団をいかにして導いていくかが求められる。いわば宗教指導者に近い。懊悩を感じながらも、日々言葉を発している。

近々、海外で遠征を行う予定である。「探検」することは難しい。その齟齬を抱えながらも、日々進んで行かなければならない。また、大学卒業までに「探検論」をしっかりした形で書き上げたいと考えている。卒論ないので。

少なくとも、大学を卒業して探検部から出て行った後でも、冒険的活動は続けたいと思っている。そのスタートが今年切れれば良いと思う。

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