奄美の宝?島口方言を残す?

今日本語がおかしい
言葉が乱雑している
特に若者言葉が危険である
否、その親や教師等も似たりよったり
若者言葉
1 きもい 訳気持ち悪い
2むずい 難しい 
3やだ  嫌だ
4無理  出来ない
5マジマンジ 本気 本当?  
他にも多数あるが
特に都会では言葉が可怪しくなっています
これらの原因は様々あるでしょうが
一つ
奄美地方の方言禁止を題材に考察してみます
私の叔父は昭和七年生まれ 
現在87歳今尚健在
その叔父から直接聴いた話し
また奄美のありとあらゆる方々から伺った事をまとめてみます!
方言禁止が始まったのは恐らく昭和10年程ではないかと推測します!
色々資料を観ましたが殆ど文献がありませんでした!解る方教えて下さい
私の叔父は当時10歳
昭和17年頃先生しまんちゅに
方言を使ったと指摘され
廊下に立たされバケツに水を
持たされたと聞きました
叔父豊志少年はバカらしい
水を投げ捨て家に帰りました!
生徒らは皆んな先生のいる時は標準語で
話していて
先生がいないと島口方言でおもいきり
喋って「ゆんキャぶり」いました!(笑)
それから昭和52年頃まで実に約四十年
島口方言絶滅指導が行われたのでした!
私ワンは昭和42年生まれ
実は何とギリギリ?
方言禁止で話すなと指摘された事が
一度もありませんでした
ただワンの言葉は方言というかトン普通語 訛の領域で方言とはかけ離れたものであった
今ワン私は方言島口を
3割程体得したと思っています!
それは叔父豊志のお陰であります
ここで私の家族叔父叔母の構成を少し紹介
私は奄美は名瀬石橋で
産婆さんの手により生まれました
四人兄妹の「三男坊」妹が一人
親や叔父叔母は昭和30年頃
龍郷村から名瀬に一緒に移住してきた
物心ついた時から隣に叔父一人叔母二人
家族6名私達兄妹全員叔父叔母も含め
9名家族だと
思って18歳まで暮らしていました!
恐らく稀な環境だと思います!
叔母「とし子」長女「のぶ子」次女、長男「豊志」
次男「秋男」ワンの親
ワンはとても手のつけられない、
「やしゃぼう」悪ガキ?でした
とにかく学校保育園が大嫌いで 
何度も脱走し逃げ回っていたのを
今でもハッキリ記憶しております
手の着けられないワンを親二人は
私を虐待しました!
何と線香に火を灯し
ワンの足の裏土踏まずにジュ~と
押し付けたのです
私は泣き叫び痛みを堪えました
49年経った今でも左足
土踏まずに痕跡が残っております
私の正確は短気
とにかく短気、直ぐ切れる物投げる壊す
殴りかかる喧嘩する喧嘩売る罵倒する 
特に親には反抗し続けました!
しかし叔父豊志には
生まれてこの方一度も怒られた事が無かった
現在生きているのは豊志のみ
母親は15年前クモ膜下出血で
手術の失敗で「くっつあされた」殺された
次 叔母は病院で誤飲性肺炎で殺され
親父は長男にネグレクト虐待
を受け痩せこけて
細菌性髄膜炎で子供に殺され
長女叔母は認知症で徘徊骨折
寝たきりのまま施設で亡くなる
残った叔父は今施設にいるが
ワン私が引き取り身請けを
する事になった!
因果応報と言う言葉があるが
他人にした行為は良かれ悪かれ
自分に還って来る
私ワンの親は本当は豊志なのでは?
私は親以上に叔父を尊敬しております!
オヤジも昔は尊敬していた!
しかし酒に溺れ
母親に暴力家から追い出す親父を
何度も観せつけられてきた
豊志は酒を一滴も呑まない
生まれつき背骨が曲がり病気がちで
不器用な叔父は大変な苦労をしてきた
昔の畑仕事、牛の世話、炭焼き小屋
炭焼きは薪の焼き加減を見ながら
徹夜をし身体は真っ黒、冬場は川で浴びる
 また当時は靴もなく裸足で名瀬まで
往復歩いて行商
その不器用「テバス」な叔父が紬の加工
染色までやれたのです!
誰もが驚いていた
私は紬工場で叔母の機織り叔父の紬加工剥ぎ取り染色を観るのが好きでした
叔父は努力の人
また当時奄美で名を馳せた大ヤクザMさん
誰もが知り怖がる超ヤクザ
しかしそのヤクザが豊志叔父を唯一
怖がっていたと言う!
こんなエピソードを豊志叔父から
聴いた叔父が少年の頃
学校では毎日誰それとなく
喧嘩に明け暮れていた
豊志少年は殴り合いの
喧嘩は一度もした事が無い
ただ口喧嘩は一度も負けた事が無い
豊志は知っていた少年が人を殺しても
罪にならない事を
そして何時もポケットにナイフを
忍ばせていたのである
何かあったら、誰であろうと刺し殺す
覚悟を持っていた
サムライなのだろうか
豊志叔父は嘘を付きません
無類のネコ「マヤ」好きです
どんな警戒心の強い野良猫だろうとも
叔父はいとも簡単に手懐けてしまう!
ネコや犬「インまや」は
人間を良く知っています!
ネコは家に付くと言われますが
そんな事はありません!
話が大分それました
愛スミョウラン←ごめんなさい
方言島口に戻ります!
島口は島の宝
誰もがそう言います!
私は真剣に考察します!
いろんな方々に、島口で挨拶ムンがタレお話しをします!
一切妥協しません
医師であろうが警察や銀行職員
コンビニ店員 外人 公務員だろうが
友達や元教師にも島口で話し掛けます!
5年前私のたどたどしい島口は余り受けいられず殴られた事もあります!
今は誰もワンの島口を咎める人はいません
っていうか私が90すぎの「ウッチュんきゃ」
お年寄りの島口を指摘するよう域に
達したのです!
昨年あるインガ男がワンにこう言いました
せき君 君がいくら方言使っても誰もつかわんよ
5年前にも同じ経験
龍郷に住む先輩Mさんに
島口でベラベラ喋ると
その方は眼つきが変わり
誰も喋ってないがな
と怒り殴られそうになる 
また私との約束も反故
昨年1/23 24日に行われた
方言サミット
私はもうワクワクで参加しました!
そして色んな方々に島口で語り掛けました
なななななななななな何とビックリ
誰一人方言で返してくれませんでした!
そう そうなんです
皆様方見識のある方ならわかりますね
島口が宝なんて本音は誰一人と思ってないんです。
方言サミットに参加したおおよそ千人その取り巻きマスコミ関係者島唄島口保存会会員
及び会長学校教師全て
理由1
島口が宝ならば普段の生活で使って当たり前本音は恥ずかしい出来ない難しい聞くだけなら解る、誰も喋って無い島口が嫌い
結論 宝の持ち腐れ
2
島唄歌う奄美の唄しゃが殆ど島口が喋れない
使い分けが出来ない
島口
例1
ありがとうございます
島口
ありがっさまありょ〜た
ありがとさん←ありがっ様りょん
これは目上が目下に使う言葉
これを使い分けせず誰それ構わず使う
奄美の唄しゃや奄美FMがそう
例2
召し上がれ←みしょ〜れ
お召し上がりください←みしょしんしょ〜れ
食べれ←カメ
目上の方にカメなんて言ったら
そりゃあもう大変な事になります
例3
貴方目上←ナン又はナヤ
お前←や〜
ヤーは同窓か目下に使います
しかし私は目下にも敬意を称してナンって呼び掛けます、理由年上にヤーって言われると腹が立つから
先日電話である大先輩と話ました
10年来の付き合い
今年86になる方で大分認知症が入っています 
本人も自覚しており
私は電話でワン解ると聞きましたら
解らない解らない連呼
ワンは先輩に言いました!貴方「ドモがほっしゅた、アナン」←訳ボケたんじゃない?
相手は怒りました
今なんて言った君
今なんて言った
私はドモっち言ったど
彼は声を荒らげて
わかってるんだよ
自分でも泣くぐらいわかってるんだよ
今さっき言った事も解らない
それを指摘されたので
尚なお悔しいって
私ワンはこう言いました
ナヤ島口喋りゅんゆにぁ?貴方島口話せる?
このお方島口保存会メンバー
それから島口で話すと
なななななななななな何と
彼はいきなり口調がシッカリとなり
今までのたどたどしい感じが
一瞬で消えました
そう そうなんです
わかりますね
ここまで来るとわかりますね
島口 しまユムタ詠む詩
方言には魂が宿っているのです←これ本当
言霊ってたまに聞くでしょう
言葉は難しい、なまじっか言葉があるから
大変です←長渕剛の歌詞
言葉で人を殺すことも出来ます!
また喜ばせる事も出来ます
但し愛の無い愛情を受けないで育った人間
には当てはまりません!
昨今コロナ禍?で人と人との繫がりが著しく希薄になりました!
最大の癌「カニ蟹」原因は
?!?さあ何でしょう
ちょっと可かなり
ムツカサン←難しい
答えは終わり最後に

3
島口は宝 
本音は無関心
どうでもいい、解らない、イライラする
ウルサイ、でも誰も喋ってないがな
奄美市長が標準語バリバリやんけー
何故か関西弁(笑)
そうなんです
奄美に住む全員ワンも含め関係ないんです
島口が無くても絶滅しようが
正直どうでもいい
っていうか、島口早く亡くなれ
ってココロの奥底で思っているのでは
進まざるは退転
島口は絶滅へ向けて
只今行進中
島口が近い将来絶滅します。
今のママでは必ず絶滅する
断言します
早くて!?うん十年
遅くても五十年でしょう
今最も若くて島口の喋れるかたが
加計呂麻島諸屯出身のY:Tさん35歳
彼は加計呂麻島で中学生までを過し
島口を話し幼少から島唄を唄い
三味線を引き
夕方はデイゴ並木で、毎日三味線をひき
観光スポットの名物となった素晴らしい方
島唄を唄う本物の唄しゃ
奄美で唯一人の天然記念人
彼の事をしまんっちゅはこう言います
神様 そして 時には 変わり者
私は縁あって約18年前
東京は渋谷道玄坂にある
奄美居酒屋「まれまれ」で彼と出会う
彼はお店で歌手として島唄を披露していた
私は初めて彼の島唄を聴いたが
お恥ずかしい当時のワンは島唄は
一曲しか知らず彼が何を唄ったかさえ
思い出せない!
ワンも一昨年の11月5日親父の命日から
三味線を買い島唄を学んでいる
多分彼は朝花節から始まり
その場の雰囲気に合わせ曲順を
組み換えていったのではなかろうかと思う
それから八年が経過私は奄美に帰省
彼も奄美に戻って来ていた
2011年7月5日
私が主催する講演会の打ち上げで彼と再開
彼は無償で我々10人程の為に
5曲だろうか島唄を披露
講演会の講師STさんは島唄が始まると
箸を止めてスマホを取り出し
一部始終を録画していた
この講師STさんは
私が鹿児島県で最も尊敬するお方です
一流 否 超一流のお方です
一流には一流がわかるのでは?
それから時は流れ彼YTの島唄は
数回聞くことに
昨年11月彼Yさんから電話が掛かって来た
兄ぃ今度フェイスブックでライブやろうでぃ
12月にやる約束をしましたが
現在5月まで保留のままです!
彼は余り身体はが強くなく
度々体調を崩しています!
風の噂で加計呂麻島に帰っていると
聞いたので先月の10日会いに言った
十数年前彼の爺ちゃんの家は
行った事があるので記憶をたどりながら
庭先にとても綺麗で
見た事の無い華が咲いていた
お婆ちゃんが一人で住んでいる
Yさんのお婆ちゃんでした
早速連絡の取れない彼の携帯番号を伺い
直ぐ電話をした
留守電になっていたが
数分で折り返しの電話があった
彼は名瀬に居た
そして体調を崩していた
お婆ちゃんには今忙しいと言って
電話を切った
続く
















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