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『耽美』とはなんぞや

(トップ画像はサカタボックスのフリー素材を使わせて頂いております。)*2011年6月の自分のココログに挙げている文章に手を入れたものです。河出書房新社の『文藝別冊吾妻ひでお特集号』を読んで書いたのですが、昨年吾妻先生も亡くなられて特集号を読み返したりしていました。*

ここんとこ再び「耽美」という言葉に触れることが多くなりました。
『文藝別冊 吾妻ひでお特集号』を読んだら、吾妻さんがコミケでロリコンマンガの旗手となる少し前に女性の描き手による男性同士のいわゆる「やおい本」が隆盛を極めていて、『らっぽり』が「やおい特集号」を出して一気に「やおい」という言葉を普及させる以前はその手のマンガを「耽美」と呼んでいたらしい。『ジュネ』が出た後は「ジュネ系」という言葉で括られることもあったかもしれない。この手のカテゴリーを示す言葉は人によって時代によって生モノのように意味を変えるので非常に難しいのだけど(同時代に生きて同時代に活動していてさえ、多分微妙に把握するとこが違うのだ)
例えば坂田作品の「ベル デアボリカ」を「BLというな、これは耽美だ」という人はそういう自分のカテゴライズの中で使う「耽美」を文脈の中で使っている、のだと思う。

ジャイブ社さんが出した『へだたり』『オレンジとレモン』も坂田靖子作品の中での「耽美」集ということが売りのようだ。それはそれで悪くないキャッチだと思うし、その要素はあるのだからイイと思う。

一方私は古い人間なので、「耽美」という言葉の定義が非常に古いのだ。
いわく「耽美」は「デカダンス」と仲良し。デカダンスといえば退廃で、唯美主義というか、不健康というか、死の観念と仲良し。海外でいえばヴィスコンティ監督、ワイルド、日本では谷崎、三島、森茉莉とか(ろくに読んでませんが;)の世界。
日常生活がきちんと送れたりするような健全さと対極にあるのが私のイメージにある「耽美」の定義である。
日常生活?はは~ん、そんなものは庶民に任せておきたまえよ、という高いところから見下ろす美意識で構成されなくてはいけない。
それはたとえお金持ちでなくてもめっちゃ貧乏でも自分の美意識を優先させちゃうようなそういうやつ。
そんで、「笑い」の要素と折り合いがつかないのが本来の「耽美」だと私は思っている。
同じ笑いでも、わはは、っと笑ってはいけない(耽美世界では)。もし笑うにしても「くすっ」と唇の端っこをちょっとだけ持ちあげて笑うのみである。

そんなこんなで、『「笑い」と共存出来ないのが「耽美」』というのが私の定義ではあり、私は「笑い」というものを人間の文化の中で一番高等なものと思っているので「耽美」は耽るものであり、墜ちるものである。
そういう価値観でいる私にとっては真剣に「耽美」のど真ん中を目指すような世界観はあまり好きじゃないし、そういうのは読んでいて疲れる。笑っちゃいけないんだろうなーって思うからね。目指すところは真剣なんだし。美なんだし。でもやっぱ退廃って疲れるでしょう、気張ってたり気取ってたりで~。
いや私も学生時代はそういうのに憧れたりしたんですよ、純文学とか好きだったし。
でも年とともにそういうのってなんか退屈だなーって思ったり、ねえ?しょせん根っから庶民だし、気張っても底が知れてるわけですよ。

坂田さんの作品世界はそういう私の定義付けでは「耽美」ではまったくないのだが、「耽美的なもの」と「笑いの要素」をアンビヴァレンツに併存させるという離れ業をやってのけることが出来ているとこが坂田さんのスゴイことだと思っている。
でも私は坂田さんも私と同じで、「笑い」の要素をとても大事に思っている作家さんだし、そのハイセンスは絶対にただなんとなく雰囲気だけ漂わす「耽美」だけに耽る価値観では終わってない。

これはあくまでも私の中での「耽美」の定義付けであって、それぞれの方に「耽美」という言葉からイメージする作品世界というのはあるのだから、それを蔑にするつもりはまったくないことをお断りしつつ。

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