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トークイベント『密やかな教育』石田美紀氏レポート 2011.8.6

*下記は当時行った感想を自分のココログに挙げているものから抜粋と内容の補足をしたものです*

トークイベント「密やかな教育」石田美紀氏
2011年8月6日(土)16時~17時半
米沢嘉博記念図書館2階閲覧室

(*イベント当時 新潟大学人文学部准教授)
米沢嘉博記念図書館で現在展示中の「耽美の誕生 ボーイズラブ前史」に関するイベントの一つとして『密やかな教育―“やおい・ボーイズラブ”前史』
の著者・石田美紀さんによるトークイベントが開かれた。この著書はまさに展示内容にぴたっとハマる『ジュネ』を中心にやおい・耽美・BLの流れを丁寧に資料にあたり分析を積み重ねられた研究本。一読者として石田さんのファンだったのでお話を楽しみにしていたのですが、期待を裏切らない充実した内容でした。遥々と上京して行った甲斐がありました。

米沢嘉博記念図書館の展示は現在は後期展示に移り、ガラスケースの中に故・中島梓=栗本薫氏の草稿や手作りの和装本など貴重なものが展示されているので、トークも中島氏がやおい・耽美・BLと総称される分野の担い手、大きな柱として果たした仕事を解説されるところから始まりました。
以下、語られた内容の主だったところを私なりにまとめます。あくまでも私が受け取った内容なので聴きとりが間違っている個所などあるかも。その点ご了解の上でお読みください。
興味のある向きは是非、石田氏の著作をお読みください~v

■「ぼく」という一人称

中島=栗本(享年56歳で死去)は、亡くなる寸前まで評論分野、ミステリ、SF、文学の創作分野ともに多くの受賞作品を持ち、TVのクイズ番組等でも活躍したマルチな才女であった。しかし、筆名は女性男性どちらにも受け取れるユニセックスなものであり、栗本名で第二回<幻影城>新人賞・評論部門佳作を受賞した「都筑道夫の生活と推理」も「ぼく」という一人称で書かれている。選考委員の中には実際に授賞式で中島氏が現れるまで男性だと思っていた人もいたという話もあり、作者は敢えて「ぼく」という男性としての書き手を演出している。女性だとはっきり文筆界に知られた後も例えば「ぼくらの時代」では作者「栗本薫」本人が主人公であるかのような一人称のミステリに仕立てたりなど、評論・創作いずれでも架空の男性の書き手をイメージとして育てているかのような経緯が見える。
現実世界では性を偽るのは難しいが、文章界では容易に男性性を表現できるその自由さ、自由に自分を表現できるツールとしての文章を書くという行為に魅せられた文筆家が中島氏ではあった。

■「今西良」シリーズ

デビュー直前から書き続けられた耽美・やおいテイストの小説の一群に「今西良」という青年を主人公にしたものがある(『真夜中の鎮魂歌』(1975)『翼あるもの上巻』(1975)『真夜中の天使』(1976)『翼あるもの 下巻』(1978))。なぜこの作品群が生まれたかというきっかけが、沢田研二を主人公にしたドラマ『悪魔のようなあいつ』(1975年・上村一夫原作・久世光彦演出・長谷川和彦脚本)であったとはっきり作者が言及している。
トークイベントでは当該のドラマの一場面を実際に会場に見せながら、このドラマが作者にどれだけの影響を与えたかをはっきり知らしめた。当時の沢田(ジュリー)といえば、人気絶頂期であり耽美を具現化したような存在だった。その沢田と共演の藤竜也のやりとりはドラマ製作者の意図が実際はどうだったかに関わらず、ホモセクシャルな妖しい感じを醸し出しており、衝撃を受けた栗本は二次創作的に自分の中の沢田と藤の関係を再構築しながら書かずにはいられない衝動を受けたのだろうと思われる。
(*2011.8.13補足 twitterにてsaramiura様より
「悪魔のようなあいつ、ジュリーと藤竜也の関係は久世光彦氏がホモセクシャルを意識して演出されたようですが、脚本の長谷川和彦氏がそのニュアンスを書けないので、二人のシーンだけ久世氏が脚本を書き直した、と昔インタビューで読みました。ご存知でしたらすいません。」という情報を頂きました。
制作側でも少なくとも演出の久世氏ははっきりホモセクシャルなニュアンスを出すことを意図されていた、ということです。)

このシリーズは同じ「今西良」を主人公にしながらも時に歌手、時にアイドル…と微妙に設定を変えている。男装の麗人、ユニセックス、性のない少年のような造形はまさに少女漫画的でもあった。同じ人物への思い入れを元にしながらも、一ファンの視点では伺い知れない部分を妄想の力で補填することで最後には作者自身の分身的存在になったと言えるまでのクリエーション、キャラ造形の変遷が見られる。
刺激を受けたドラマを元に二次創作の力が生まれ、書き綴っていく間にオリジナルとしてまとまっていく。

(*この変遷は「やおい」における二次創作からオリジナルへと創作を開花させていった作家群のことを思い出させるなあと話を聴きながら思った。萩尾先生も手塚さんの「新撰組」に衝撃を受けてそこから色々と妄想したという話をされていたが、それに通じるものがある。妄想こそ創作の原点とは萩尾先生も言っていたが、まさに中島=栗本氏はものぐるほしい創作への活力を一つのドラマから得たのだろう。)

ではなぜここまで見る人によっては刺激的なほどにホモセクシャルなドラマが普通に企画され制作され一般のお茶の間で流れるTVドラマとして流されたのかという、そこについて石田氏はさらに面白い切り口で説明を重ねていかれた。

■あいまいな男性の裸体

女性の裸体が男性の視線の対象で、芸術かポルノグラフィ、もしくは芸術の仮面を被ったポルノグラフィといったはっきりした区分で理解できるのに比べて、男性の裸体というのは見るものによって意味を変える、文化的に収まりの悪い対象である。
石田氏がここで例に挙げたのが幾つかの殉教者をテーマにした絵画だった。
腰の線ぎりぎりに腰布をまとったほぼ全裸に近い殉教者の絵画は見るものによっては非常にエロティックであるが、そこにエロを汲み取ることは表立っては言えない。
さらに例に挙げて会場に実際の動画を流されたのが高倉健主演の任侠映画「昭和残狭伝‐血染の唐獅子」。
男同士の絆を描く任侠映画ではヒロインは物語の中枢にはなく、あくまでも仁義に生きる男と男の絆こそが主眼であった。滅びの美学で描かれたそれらは、これも見るものによっては非常にホモセクシャルなのだが、映画の作り手や任侠映画のファンである男性達は、ホモセクシャルなものとは一切考えておらずむしろホモソーシャルな立場である。
石田氏は、しかしホモソーシャルはホモセクシャルと同じコインの表裏であると断言する。
(*ここまで論拠を色々提示しながらはっきり言いきって貰えると聞いてる方も気持ちが良かった。今回のイベントで対談のページが展示されている同人誌『らっぽり』が任侠映画を数人の描き手でコラボレーションし、当時の同人誌としては破格のカラー表紙で出した『兄弟仁義』などもこの任侠映画のもつホモセクシャリティに惹きつけられてのものだったろうと思われる。この作品は任侠映画そのままの脚本で敢えて同性愛要素を入れたわけでもないのに、面白いほどに同性愛的である。企画同人誌「らっぽり」に参加した面子はさすがに創作者としての鋭い嗅覚でこの企画を楽しんだのだろうと思われる。
石田氏も話の流れの中でさらっとこの本の紹介をされていた。)

任侠映画にしろ、先のTVドラマ「悪魔のようなあいつ」にしても見ようによってはホモセクシャルそのままの要素たっぷりのものがなぜ普通に企画制作された(る)のか?という謎を石田氏は、男性の裸体の扱いの文化的な曖昧さ、作り手側の無意識さによるものと説明された。「悪魔のようなあいつ」からピックアップして流された沢田研二と藤竜也の会話は誰が見ても同性愛っぽいしエロいのだが、この「誰が見ても」と思うのはそれでもあくまでもそうしたことに理解がある一部の男性か一部の女性だけ。
(*2011.8.13補足 「悪魔のようなあいつ」のホモセクシャルなニュアンスは意図的な演出があったというはっきりした言質の存在を情報で頂きましたが、石田氏の作り手側の無意識さというのは主に任侠映画の方で言われていたことを補足します。
企画を通す際にはしかしこの「曖昧さ」は逆に確信犯的に使われたかもしれません。3億円事件の犯人役を沢田にやらせる、というだけでTV局のエライとこは通りそうだからw沢田研二のちょっとバイセクシャルな色っぽさを感じるのは一般的なものではなく、殉教者の絵画にセクシャルな艶っぽさを見出すのが一部の人であるように、どこか背徳的で後ろめたいものがあるとこがミソだと思います。)

任侠映画も大半は一般の男性ファンが圧倒的だが彼らはそこに同性愛要素などは求めてはいない。なのに仁義に死に行く者たちはなぜかわざわざもろ肌を脱ぎ肌を見せ、ヒロインそっちのけで男性ばかりの集団にまるで姫のように主役の健さんだけが白い服で輝く。

文化的な視点では任侠映画においては悪役は洋服を着用し武器はピストル、主役達は和服の着流し、武器は日本刀と日本が敗戦したアメリカとの関係を反映させているという説明も非常に興味深かった。敗戦した日本は洋服着用の大物悪役に勝てる見込みもないまま、絶望的な状況で日本刀で殴りこみをかけるというような滅びの美学を元にした脚本が多いのだそう。闘いの場面に女性は入ってこず、肌を見せながら死んでいく。
任侠映画に影響を受けたと思われるハリウッド映画、タランティーノの「レザボア・ドッグス」(1992)は記者から「ゲイムービーか?」と聞かれて「お前はものを知らない、これは仁義だ」と答えたと言う。
作り手はあくまでもホモセクシャルとは無縁なつもりで作っている。

やおい・耽美・BLの前史として、その担い手の中心にいた中島=栗本氏は表面上は一般的なものとして扱われた男達の曖昧な肉体を再解釈した表現の中で再構築していったのだと言える。

■会場からの質問コーナー

Q.「萩尾・竹宮が手塚の「伊賀の影丸」などがエロいというように言っていたが男性ファンはそうは言わない。それに近いか?
A.近い
Q.戦前のパターンと戦後では違うという近代文学におけることと類似点があるか?
A.敗戦によって負けた男たちは権威を失った。戦前の強い男性イメージへの回帰、しかし、敗戦は事実としてあるので、任侠映画では殴りこみして死んで終わるというデッドエンドが殆ど。現代ではしかし、同じことを描くのでももっとハッピーエンドも。現代社会の中では死ななくてもいい。やおい→BLと総称される現代の作品群の中でメンタリティは変化している。
Q.二次創作として出てきた今西良のシリーズは周囲の反応はどうだったのか?60年代‐70年代の富島健夫の少女小説などは周囲が行き過ぎた性の描写といって批判の対象にもなったが、その辺どうだったか?
A.やおいの二次創作は批判の対象になるには読者が少女読者のみに限られており、批判しそうな年代の人達(男性達)は読んでいなかったと思われる。そうした人達に目につかない閉ざされた中で読まれていた。
(会場にいた、やおい研究家の金田さんがここで補足を。
「子供向けの本として出版されていたら問題になったかもしれないが、栗本さんの本はハードカバーで一般向けに販売されていたので、大人が読む小説としては多少エロティックであろうと問題にならなかったのであろうと思われる」

以上、ちょっとまとめきれてない部分もありますが、トークイベントの主な内容です。
*( )内は私の個人的な感想や補足です。ともかく興味深い内容で、私も大学生になって石田さんの講義を大学で受講したい~と思いました。

(補足)2024年現在、『密やかな教育』(洛北出版 2008/11/8)品切れ中

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