未練がましく地球を旅した日
「ねえ、起きて。地球、滅んじゃうんだって」
起床の催促と共に、突拍子のないニュースを伝えてくる女。全身合わせて二万円くらいのファストファッションの女。髪は梳かしてクリップにまとめ、顔に至ってはノーメイクの女……柏とばりだ。枕元にうつぶせに寝かされているスマホのアラームよりずっと騒がしい。
「宗佐、アラームの趣味渋い上に悪いね」
甲高い女の声で歌われる、文章になっていない歌詞。今から大体八十年くらい前の成人向けに作られたイラストノベルのミュージックだ。
「クラシック趣味なんだよ」
「キモいね」
とばりは僕をすっぽり包み込んでいた布団を剥ぎ取ると、もう一度「起きて」と催促した。
「地球、滅んじゃうんだから」
「まーた趣味のSFごっこかい、とばりさん……ほら見なさいよ、まだ朝六時ですよ。しかも日曜日。非常識な時間に非常識な妄言を聞けるほど、僕はお人よしじゃないんです」
「SFごっこでもないし、非常識じゃないよ。非常識なのは宗佐だよ。日曜日なのにアラームかけて寝るとかキモいんだよ」
「それはアラームを切るのを忘れたからだよ……」
とばりはマイナスの感情を全て「キモい」という言葉で表現する女だった。
「どうやって入ってきたの?」
「指紋認証キーのメンバーを一人分増やしたの。私の分。この前来たときに宗佐が先に寝ちゃったから、そのときにちゃっちゃと」
とばりがくいっと親指で示したのはこのマンションの一室に一つ必ずついてくる入居者デバイスだ。鍵もこのデバイスで部屋主の指紋を使うので、事前にこれで指紋を登録しておく。家族住みも多いので部屋主のほかに七人分まで指紋を登録できる様になっている。どれ、とまず自分の指紋を使ってデバイスのロックを解除し、液晶画面の「設定」「指紋認証」「メンバー一覧」をぽつぽつとタップすると、「八幡 宗佐 様」の二個下にしっかり「柏 とばり 様」と記されている。この中間に「由岐 美波 様」の文字が居心地悪そうに座っていた。
「まだ元カノ消してなかったんだ」
「……忘れていたんだって」
「嘘つけ。宗佐が未練がましいのは皆知ってるし」
「じゃあ今消す」
「戻る」「メンバー消去」「由岐 美波 様」「このメンバーを消去しますか?」「パスワード入力」「指紋認証」「本当に消去しますか?」……「はい」。もう一度メンバー一覧を見れば、僕ととばりの二人が登録されていることになっていた。
「私は消さないの?」
「消しても、また同じことやるだろう」
「無理だよ。地球、滅んじゃうのにまた宗佐が寝ているときを狙ってこっそり登録するのはさあ」
「そもそも人んちの鍵をこじ開ける様な真似をするなよ」
ついに僕は彼女の妄言を取り合うことなく、顔を洗って朝食の準備をすることにした。
「おい泥棒、入居者デバイスの『便利』押して」
「泥棒じゃねえし」
と言いながらも素直に彼女はデバイスをいじり始めた。「それで?」
「『ドリンクサーバー』を押して、コーヒー二人分。ミルク入れて」
「えー、私ブラック派なんですが」
「黙ってやる。そもそもお前は招かれざる客なんだから、コーヒーを馳走して頂けるだけで僕に泣いて感謝すべきだぜ」
彼女が文句を垂れている間にキッチンのドリンクサーバーにマグカップを二つセットする。僕のと、美波のだ。
コーヒーを作ったらトーストをオーブントースターで焼いた後、バターを乗せる。日曜日にもし早く目覚めたら、一度軽い朝食を摂ってから布団の中でぼんやりするのが僕の趣味だった。
「私の分のトーストもあるじゃん。気が効く」
彼女は当たり前の様に僕の皿とマグカップを自分の方に寄せた。
「とばりの分はこっちだよ」
「一緒じゃん」
「……そうだね」
とばりに何を言っても無駄な気がしたので諦めて美波が使っていた皿を取る。それから行儀が悪いなと思いつつ、テーブルの上にタブレットを立てて、ネットニュース番組に繋いだ。
『……速報です。本日未明、ヨーロッパ南天天文台は巨大な隕石の落下を発表。落下点は太平洋が予測されます。昨日には観測されず、突如現れた様子で……』
「……とばり」
「…………」
『なお、この隕石は宇宙中の塵を吸収し、現在も巨大化している模様。落ち着いて、近くの公民館シェルターに避難して下さい。繰り返します。落ち着いて、近くの公民館シェルターに避難して下さい……』
「あ、到達予想時刻更新されてる。明日の午前一時十七分だって」
僕の驚きを他所に、とばりは半笑いを浮かべながらネットニュースを見ていた。
「どう思う?」
「だから言ったじゃん。地球、滅んじゃうって。SNS見てみなよ」
スマホを寝室から取ってきて有料のSNSアプリを起動する。注目度の高い英語でコメントが書かれた書き込みには写真がつけられていて、空に薄っすら隕石の様なものが映っている。信じられなくて検索エンジンから気象庁のサイトを閲覧すると、赤いバナーに白い文字で「すぐにげて」とあった。それなのに来週の天気予報載せているのが滑稽である。
ホーム画面に戻って、まだ消していなかった美波の電話番号をタップする。コール音が体感五分ほど続いた後、美波は出た。
「美波?」
『……なんなの。できるだけ充電残しておきたいんだけど』
とりあえず電話に出てくれたことにほっと息を吐く。
「どこにいるんだ?」
『なんで?宗佐に私の居場所とか関係なくない?ちょっとうざいよ』
「ごめんって。ニュース見た?」
『見てるからシェルターにいるんでしょうが、切るよ』
「あっ、みな……」
通話が切れた音が永遠にも感じられた後、ようやく実感が沸いた。
「宗佐、やっぱキモイよ」
「うるさいな。とりあえず、どこに逃げる?一番近い公民館なら鶴嶺だよな」
「私は行かないよ」
とばりの家からだと鶴嶺西コミュニティセンターとかが近いのだろう。そう思ったけれど、彼女の言っている意味は全然違った。
「シェルターに逃げても、無駄だよ。ニュースで言っているじゃん、超巨大化しているって。地球よりでっかい隕石が落ちてくるのに、なんで逃げなきゃいけないの。本当に地球最後の日なんだから」
「助かるかもしれないだろう」
「万一生き残っても、世界中どこもかしこもなくなっちゃうんだから、すぐ食べものもなくなって死んじゃうよ」
とばりが自信満々に言うものだから、まだ眠気が残っている頭はその意見を受け入れてしまった。
「……それも、そうかもしれないな」
「でしょ?」
とばりは少し考えた後、「一緒に来る?」と問うた。それに軽く頷く。
「大安だっていうのに、とんだ日になったな」
「なんじゃそりゃ」
とばりはコーヒーだけ残した。
「それじゃ、どうするんだ?」
「とりあえずコンビニでしょ」
「朝の運動にはちょうどいいか」
「それから、できるだけ遠くに行こう」
「電車動いているか?」
「お昼まで動いているってサ」
とばりはわざとらしく「さ」を強調して言うと、自分はなんの後片付けもせずに靴を履いてしまった。仕方なく自分ととばりの分の食器を片付けようとしたけれど……地球が滅ぶのに、そんなことすべきではない。さらばだ、僕と美波の思い出の食器よ。
「早くしてよ」
「最後の服くらい考えさせろよ」
そう言うと彼女は靴を脱ぎ散らかし、人のクローゼットを物色し始めた。ものの一分で僕の最後の服はとばりによって決められた。
コットンの灰色のTシャツ、青いオーバーサイズのシャツアウター、黒のスウェットパンツ、その辺にあった靴下。
「いかにもお安いファッションだなあ」
「そんなの誰も気にしていないってば。私もそんなもんだし」
今一度とばりの格好を見た。微妙な色をした膝までの丈のAラインワンピースの上に、淡い色の長いカーディガンを着ている。スニーカーソックスに流行りの蛍光色のスニーカーが服の色とアンバランスだった。それに比べたら僕の格好の方が大分良く思えてきた。甲の部分がメッシュ素材になっているスポーツブランドのスニーカーを合わせた頃にはハイになっていて、とにかく外に出たくなった。
「鍵は閉めさせて」
「地球、滅んじゃうのに?」
「滅んじゃっても」
僕の指紋で自宅の鍵を閉めてエントランスに向かう。AIコンシェルジェが必死に非難を呼び掛けていた。
「宗佐、郵便物来てるよ」
「地球が滅ぶんだからいいだろう」
どうせ先月末の携帯料金支払いの督促だろう。
マンションから出て一度右折し、二つ目の通りに出る。大体六百メートルくらいの運動だ。
「やっぱ人多いね」
「地震や台風ともまた違うからな。皆現実味がないけれどとりあえず行動はしているって感じかな」
すぐ近くの鶴嶺公民館にも人がわんさか押し寄せている。早く行かないと地下フェルターが満員になってしまうのだろう。この辺は鎌倉や海老名よりも観光客が少ないので住宅街が密集している。
コンビニに至っては混んでいるというレベルでは言い表せない程の混雑具合だった。さっきのネットニュースでは隕石の落下予測時刻は深夜だと言うし、今の内に買える食料は買っておこうという訳だ。早朝の時間帯なのにセルフレジはフル稼働で、残っている食料は見たところ袋詰めの野菜と売れ残りのドレッシングくらいだった。
「とりあえず近くのローカルバスで香川駅まで行こう。昼までは交通網は大丈夫そうなんだろう?」
「あ、じゃあ待って。銀行からお金下ろす」
長蛇の列ができているセルフレジとは対照的にせっかく四台あるのに誰も使っていない銀行ATMから、とばりは現金を下ろした。パンパンになった封筒を肩から提げているムック本についている様な黒いバッグに放り込む。
「見て、五十万円。上限いっぱい引き出しちゃった」
「今日一日で使い切れるかな」
「宗佐はお金下ろさなくていいの?」
「現金は三万とりあえず持ってきた。あとクレカでなんとかするよ」
どこまで行けるかわからないけれど、新幹線でも飛行機でも、とりあえず乗れるだろう。
僕たちは香川駅に到着してようやくキオスクでとりあえずの食料を手に入れることができた。正直朝食はトースト一枚では足りないと思っていたところだったからありがたい。
「これからどこに行く?」
「茅ヶ崎駅まで行く。そこからなら湘南エクスプレスが出ているし。宗佐、定期貸して」
嫌な予感がしながらも自分の通勤定期を渡すと、とばりはさっさと改札を通り抜けてしまった。
「…………」
スマホの手帳型ケースに入っている交通系電子マネーに一万円を入れる。昔はそうではなかったらしいけれど、現代では電車と名のつくものは皆、同じ電子マネーを使って乗ることができる。昔のJRも改称し、マスコットキャラクターもかわいらしいペンギンからふてぶてしいマンボウに変わってしまい、今の僕にはこのマンボウがとばりに重なっていた。
『お客様にお知らせ致します。本日、各列車は原則本数を大幅に減らして運行しております。お客様にはご迷惑をおかけしますが、ご理解をお願い申し上げます。なお、本日の小田原発の特急、湘南エクスプレスは次の八時二十九分、九時十四分、九時四十四分、十時十四分、十一時十四分の列車で本日の運行は取り止めとなります。ご予約はみどりの窓口よりお伺いします……』
プレパラートで肉声を潰した様な声で終わりを告げる。もう二度と香川駅を使うことはないのだろう……。
由岐美波とは、大学からの付き合いであった。
僕は八年前の今頃、茅ヶ崎にキャンパスのある大学の情報学部に入学した。地方の田舎の村から出て(驚くことに、百年くらい昔の生活を未だに続けている様なところだ。更に驚くことに、こうした集落は日本にはまだまだ残っている)、一人暮らしを始めたばかりであった。茅ヶ崎も東京からかなり離れてはいるものの、やはり大都市神奈川県の一部だからか、僕の故郷と比べものにはならないほど栄えていた。だからその頃の僕は、通り過ぎる人通り過ぎる人が自分をおのぼりさんだと馬鹿にしているんじゃないかと気が気でなかった。電車だってまともに乗ったことがなかったくらいなのだから。
その様な茅ヶ崎コンプレックスを抱えた僕に、「あなたは地方から来たのですか」と真っ向から、しかも初対面で言ってきたのが由岐美波である。確か新入生オリエンテーションで、学籍番号が僕らは続いていたから隣同士に座らされたのだった。美波は暗い金髪を優雅にカールさせ、胸元が開いた明るい色のワンピースに、その上からデニムのジャケットを羽織っていた。唇は真っ赤なルージュで染められていて、一目で僕はこの女が「都会の女の見本」であることを理解した。そんな女が「お前は田舎者か?」と尋ねてきたのだ。まだ子どもの様な年齢の僕はいらいらして、
「そう見えますか?」
と言った。
すると美波は、「だって、訛りがあるから」と言った。僕は努めて標準語を話す様に心がけていたのに、他人から見れば田舎者が頑張って東京弁を話しているのだ。屈辱的である。
「それは悪かったですね」
「悪いとは思いません。ただ、周りに方言のある人がいないので、ちょっと気になってしまっただけです。気を悪くしたのなら謝ります」
馬鹿にするのなら馬鹿にしたままの方が憎みやすいのに。彼女は素直に頭を下げた。僕はその謝罪を受け入れて、とりあえず、アドレス帳の友だちになった。
今思うと、美波は田舎者で野暮ったい僕とよく恋人同士になろうと思ったな。野暮ったい僕をなんとか地元の人間にしてくれたのも彼女だった。そして美波ととばりは全然違うタイプの女性だった。それなのに美波にいつもとばりの面影を感じていたのは何故だったのだろう。いつか答えを出そうとずっと考えていたのに、答えを出す前に僕と美波は別れてしまい、地球は滅亡しようとしていた。だから今日中に答えを出そうと思った。
「ねえ、なんで宗佐は元カノと別れたの?」
湘南エクスプレスで茅ヶ崎から東京に向かうまでのこと。僕ととばりは向かいあった席に座り、キオスクで買った二種類のサンドイッチを半分ずつ交換して食べていた。
「僕のこと散々未練がましいとか言っていたけど、そういうこと聞くんだね」
「だからだよ。どうせ地球が滅ぶのなら、今日中に未練をすっぱり切った方がいいって。だから話を聞いてあげようと思いまして」
とばりの表情を盗み見ると、確かに興味本位で聞いた訳ではない様で、どうでもよさそうに窓の外を眺めていた。
「馬鹿にしない?」
「多分しないと思う」
本当に?と聞き返そうとして、そもそもとばりに僕を馬鹿にしない日があっただろうかと思い、やめた。そしてこの理由は僕らにとって非常にプライベートな内容ではあったのだけれど、とばりには過去、美波とのことで悪いことをしたので、話してもいいかなという気持ちになる――しかし、それでもかなり人に話すのは憚られるものではある。
「セックスレスだったんだ」
「……そうなんだ」
反応は思ったよりずっと薄く、淡々としている。
「笑うと思っていた」
「笑うと思われていたんだ」
「とばりはそういうやつだから」
「……そうだね」
彼女はコーヒーのペットボトルを開かないと言って僕に渡した。よくあるブラックの、太った四百五十ミリリットルのやつだ。
「美波と同棲し始めたのが、僕らが仕事をし始める少し前で、最初の頃は週に二回だか三回だか、新しい生活に対するストレスをぶつける様にやっていたよ」
ペットボトルのキャップが自由に回せる様になって満足した彼女は、バッグから薬を取り出してそのまま、コーヒーで飲んでしまった。
「でも仕事を覚え始めて、給料で色んなものを今まで以上に買えるようになると、段々セックスが相対的に好きではなくなってきた。セックスよりも美波と生活をする方が楽しいと思えてきたってこと」
「でも、元カノはそうじゃなかったんだ」
「そういうこと」
とばりがここで一発、食後のゲップ。一車両一組しかいない状況でも、できれば外で汚い音を出すのをやめて欲しい。
「勿論、大学時代にそういう行為をしなかった訳じゃないよ。でもその頃から僕にとって性行為はスポーツみたいなものであって、コミュニケーションではなかった。でも彼女にとってはコミュニケーションだったってこと。だから美波は僕を好きではなくなってしまったんだ」
「宗佐が元カノを好きじゃなくなったんじゃなくて?」
「そうかもしれない。僕は、性行為のみが恋人を定義するものではないと思う。でも、僕たちは若かったし、これは僕だけの話だけど、周囲を見ていると、性行為をしなければならない気がしてきた」
大学に集まる若者は、高校生の頃よりもずっと自由で開放的な時期を大いに楽しむ。別に、性欲を持つことは罪ではなく、当たり前のことだ。しかし時にそれは同調圧力となってコミュニティに覆い被さる。誰もが誰もを共犯者にしたがっている。きっと美波も、普通の女の子だったに違いない。実際付き合い始めの頃、僕たちはボディタッチすら躊躇うほどの初心さがあった。しかし毎日校内で、サークルで、ゼミで、最終的に話題になるのは酒と女の話だった。近年ではようやく、そういうホモソーシャルを増長させる話題を忌諱する風潮が生まれたとは言っても、暇で金のない学生がやれる趣味はそれくらいしかなかったから、自然と僕たちもちょっとずつ、しかし確かに変わっていく。
「それでちょっとずつずれながら、僕と美波は生活していた。その頃には美波が鬱陶しくて、彼女と生活するのも嫌になってきた。同じ頃、彼女も僕との生活が苦しくなってきて、他の男とセックスをしていた」
「寝取られたんだ」
「負け惜しみに聞こえるかもしれないけど、そんな、寝取られたという気持ちがないんだよね。収まるところに収まった感じ」
「宗佐が負けているとは思わないよ。勝ってもいないと思うけど」
「ありがとう。僕は別に、これについて誰も悪くないと思っているんだ。彼女には僕が合わなくて、僕には彼女が合わなかった。それだけかなって」
ここまで話してしまうと、大分すっきりしてきた。今まで考えてきたことを、自分の言葉で表現する。今は大抵のコミュニケーションがデジタル化されているけれど、自分の肉声で、自分の感性で、自分の言語でコミュニケーションを取る相手がいることをありがたく感じた。
「美波とは、家族になりたかったんだ」
「なれると思ったんだ」
「思っていたんだよ。学生の頃、彼女に課題のやり方を教えたり、服の選び方を教わるのが好きだった。そういうのを家族みたいだと思っていた。でも彼女から見ればそれは家族のコミュニケーションではないんだ」
とばりはまた、ペットボトルに口をつけた。それに倣って、僕も微糖のミルクコーヒーのペットボトルに手を伸ばした。
「美波、料理が下手なんだよ。幾ら教えても上達しない。あの子はジャガイモが嫌いだった。ジャガイモの芽がいつも上手く取れないから……」
「私みたいだね」
「あの子も、お前も、俺の話を聞かずにどんどん次のことをやろうとするんだ……」
その度に僕は、未練がましく、彼女の尻拭いとして、彼女のやりかけの作業を次に彼女が困らない様にしている。
流石は東京駅というのだろうか、茅ヶ崎や香川とは比べものにならないほどの人間がいた。自分の帰るべき場所に帰ろうとしている人たちとは違い、僕たちは今行かなくてもいいところにわざわざ行こうとしていた。
「次はどこに?」
とばりは僕の了承を聞かず、自分が選んだ場所に好きな様に連れていくことにしたらしい。僕の交通系電子マネーのICカードを奪い、リニアの発券機に向かって五分ほど格闘を繰り広げた。ICカードさえあればチケットを発券しなくてもいい様になっている。どの駅まで乗るかと座席をあらかじめ発券機で決めるだけでいい。
「九時半のリニアね。そこの改札口から、十三番線」
「のぞみか」
「昼飯買った方がいいよ。さっきまでサンドイッチ食べていたから、気は乗らないかもだけど」
そう僕に言ったけれど、彼女は目を輝かせて駅弁を選び始めた。
「人生最後の昼食だよ。ちゃんと選ばなきゃ」
「昼食が二度三度あってもいいだろう」
「情緒がないなあ。選ぶ楽しみも含めて駅弁なのだよ」
結局、彼女はオーソドックスな幕の内弁当、肉が沢山乗っている弁当、期間限定の鯛とたけのこの弁当を選んだ。
「よくそんなに食べられるな」
「でしょ?こっちに来てからだよ、今までそんなことなかったのにね」
僕はどうせとばりが「それいいな」と言い出すのを見越して、彼女が選んだ弁当とは全然違うカツサンドとシュウマイ弁当を選んだ。飲料の補充と菓子類の調達を抜け目なく行う。会計を済ませた頃にはギリギリの時間となっており、ようやく最新鋭のリニアに乗り込んだ。
食料の補給でバタバタしたせいか、自分の座席に座ると肩に疲れがきている気がした。とばりの方はというと、スマホでネットニュースを見ていた。
「何かやってる?」
「隕石の話しかしていないよ」
「そりゃそうだろうな」
彼女が見せてきたスマホの画面には空に浮かんだ巨大隕石の映像が緊張感を帯びながら流されている。
「朝、SNSで見た隕石より近付いている様に見える」
「近付いているんだよ。多分後数時間で空を岩肌が覆う様になるよ」
「落下予測時刻も最新のが出ているね。明日午前一時三分……十分ちょっと早くなったのか」
「そりゃ落ちてきている間にも巨大化しているからね」
「ガリレオ・ガリレイをご存じではない?」
「やめてよ。思ったことを言っただけじゃない」
顔を見合わせて、二人で笑う。こんなやり取りをしている間にも各地方公共団体の所有している地下シェルターは場所の奪い合いだったり、集団パニックになっていたり、デマニュースが炎上していたり、そして、巨大隕石は更に巨大化して、終わりへのカウントダウンをしている様だった。
弁当をすっかり片付け、その上案の定僕のカツサンドを半分食べてしまったらとばりは眠くなったらしく、京都に着いたら自分を起こす様に言ってさっさと寝てしまった。僕より早く起きていたはずだし、疲れがたまっていたのだろう。こんなに行動的なとばりを見るのは二度目だったから。
とばりが寝てしまうと、僕は一人ぼっちになってしまった気がした。美波が出ていったことを、半月前とばりにチャットで伝えると、今までの鬱憤を晴らす様にほぼ毎日僕の家にやってきた。昼間は僕も仕事があったから、夕方、僕が帰ってきた頃を狙ってやってきて、夕食をねだって、ちょっとぼんやりしてから帰る。だから一日の内精々三時間くらいしか会っていなくても、一人でいる感覚が薄かった。それ以前、僕が大学生で一人暮らしをしている間は安アパートだ豚小屋だなんだと言いながら、一日のほとんどを僕の部屋で過ごしていた。
地球が滅ぶ。その言葉のスケールの大きさと現実味のなさに惑わされていたけれど、間違いなく一緒に死に場所を探している。その事実を淡々と受け入れている僕がいる。
新横浜を抜ければ次は四十分ほどしないと次の駅に停まらない。しかしまだ地下シェルターの空は探せば見つかるかもしれない。地下シェルターに入れば、もしかしたら隕石から助かるかもしれない。そもそも、地球は滅亡しないかもしれない。突然隕石が現れたのなら、突然隕石が消えることもあるかもしれない。
ネットニュースでは非難する上での注意だとか、南天天文台の記者会見とか、何故この様な現象が起こりうるのか専門家が通話で解説だとか、そういう話をしていた。六十年前のバーチャル技術の革新によって、わざわざスタジオを構えなくても、出演者が自宅から番組を配信できる様になった。一見、このネットニュース番組もニュースキャスターが一列に並んでいる様に見えるけれど、実際は各々自宅でバーチャル機材を用いて参加している。国営放送や一部の民放局は流石に都内にスタジオを構えているけれど、今はほとんどのニュース番組はバーチャル空間を用いての配信が主流だ。
つまり何が言いたいのかというと、このネットニュースに出演している人たちも、未だ自宅にいて、避難が満足にできていないということで、そのことがかわいそうでならないということだ。僕は選択してここにいるけれど、彼らは仕事ゆえに避難ができないのだ。
結局僕はとばりを起こさなかった。手を伸ばして、とばりのかさついた頬を撫でる。その手をくすぐったいとでも言う様ににふふ、と鼻で笑う。とばりが安心して眠れることがこんな状況なのに、ひどく嬉しかった。
京都駅の到着を知らせるアナウンスで、僕が起こさずともとばりは勝手に起きた。
「おはよう。よだれ垂れているよ」
手渡した駅弁についてくるお手拭きを渡そうとすると、とばりはきょとんとした顔で僕の顔をまじまじと見る。
「これでよだれの跡を拭けって言っているんだって」
「じゃあ拭いて」
「髪の毛もぐちゃぐちゃだよ。京都で起こせって、新大阪で降りるってこと?」
「ううん。岡山。ああもういい、トイレに行くついでに直すから」
「僕もちょっと寝ていい?」
「どうぞ。岡山に着くちょっと前に起こしてあげる。どうせまた特急に乗るし、寝る暇ならまだあるからね」
僕はお言葉に甘えることにした。
岡山に着く頃には、時刻を見れば正午を少し回っていた。
とばりは僕のリニアの乗車代も支払ってくれていた。ついでに電子マネーにチャージできる上限まで入金してくれていたらしい。そのことについて礼を言うと、「お金、沢山あるから」と笑っていた。
「次は八番線の特急ね。急いで、多分、次の列車で運行取り止めになるはずだから」
宗佐!お前、親の恩を忘れてどこに行こうッてんだ!
宗ちゃん、お父さんに謝りなさい。最近あなたは勝手がすぎると思っていましたが、まさかここを出て関東の大学に行こうって……なんて親不孝なの。
両親の罵倒がひっきりなしに聞こえてくる。もう慣れた。殴られることも、怒鳴られることも。いつ災禍はやってくるかわからないけれど、やってきたとき、僕は自然と自分というものを分厚い壁で囲って、なんとかやり過ごそうとしていた。
一通りの罰を受けた後、父は勝手にしろ、と言い、母は僕の背中に宗ちゃん嘘よね、何か間違えちゃったのよね、としきりに話しかけていた。
ふすまの向こう側は僕と妹の寝室だった。薄くて穴だらけの敷布団と、こちらも綿がほとんど残っていない敷布団を妹と一緒に使っていた。
「お兄ちゃん」
小声で僕を呼ぶ妹の左の頬は母の平手打ちのせいで赤く腫れていた。
「これから、どこに行くの」
「神奈川の大学だよ。ネットで入試を受けさせてくれる大学で、なるべく都心に近いところを探したらここしかないなって。もうこの家には用がないし、お父さんとお母さんが寝たら、こっそり家を出ていく。見つかったら村の人総出で戻されるだろう。そうならない様に北の山道から大歩危まで歩いて行く。流石に五駅も離れていれば知り合いとも会わずに済むだろう」
「向こうでの家は決まっているの?」
「ううん。まず東京まで交通費で精いっぱいだった。まずは東京で日雇いの仕事をするよ。一週間もやれば湘南までの交通費ととりあえずの金ができる」
僕も妹も小遣いをあまりもらっていなかったから、東京までの交通費、二万五千円を稼ぐのには苦労をした。アルバイトができる場所もなく、これまでのお年玉だったり、親の金を気付かない程度にくすねたりしてなんとかかき集めることに成功した。妹も自分の全財産を僕に皆くれてしまったから、それが申し訳なくて仕方ない。
「お別れ?」
不安そうに布団の中から僕の表情を覗く妹を安心させたくて優しく撫でる。
「一生のお別れではないと思う。いつか、僕がここに戻ってこないとも限らないし」
しかし、そんなことは一生ないだろうということを、一番僕がわかっていた。妹も、多分一生をここで過ごすのだろう。お別れだ。
「じゃあね」
僕が出ていこうとすると、妹は僕の袖を掴んだ――しかし、彼女はすぐにその手を離してしまった。
「大丈夫だよ。一生のお別れじゃないと思うから」
ああ、二度と彼女にあってたまるか。
とばりががくがくと僕の腕を揺らして起こす。
「おはよう。降りるよ」
「久しぶりに地上を見た気がする」
リニアが地下線路だったこともあり、もう暮に差し掛かっている空がひどく懐かしく感じられた。
「隕石……大きいね」
空に浮かぶ(実際は落ちてきている)隕石は、パニック映画で見た様な構図そのままだった。違うのは登場人物が僕ととばりだということだけ。
「ここから先は電車なくなっちゃったから、歩くからね」
初めて来た駅の初めて歩く道を、何度も練習した様にとばりは歩き始めた。慌てて僕もその後を追う。
「これから、どこに行くの」
「そのうちわかるよ。それに、宗佐ならよくわかっているはずだよ」
大歩危駅。ゴシックフォントで書かれたこの駅の名前を見て、僕は押し黙った。なるほど、、よくわかる。
随分人がいなくなっていた。駅員の人達も帰宅の準備をしていて、乗客や出歩いている人間が僕達しかいないことに気付く。帰路を行く駅員たちは皆、僕たちを変なものでも見る様に不躾な目を向けていた。
「お客様、ここからなら北口をまっすぐ行けば地下シェルターのあるコミュニティセンターに向かうことができますよ」
親切な女性の駅員が声をかけてくれたけれど、そこに向かう気はさらさらなかった。
僕たちはネットニュースをラジオモードに切り替えて、それを聞きながら田舎の町を歩いていた。もう何を聞いても驚かなくなっていて、もう逃げようとも思わなかった。ただ、落下予測時刻を知りたかっただけだ。ジジジ……と不愉快な音の真ん中で、アナウンサーが数字を読み上げている。空を見上げれば巨大な隕石が空を覆っている。隕石のせいで暗いのか、太陽が沈んだから暗いのかわからないくらいに。
そうして数時間歩いて足の痛みが気にならなくなった頃、ようやく僕は彼女を問いただす勇気を出した。
「……とばり」
「何、お兄ちゃん」
「どうして僕をここに連れてきたんだ?」
とばりは僕を、僕たちの故郷へ連れて行こうとしていた。
「私はね、宗佐にずっと、連れて行って欲しかった。あの村から連れて、一緒に逃げて欲しかった」
「僕が出ていった日のこと?」
俯きながら頷く。僕があの家から、あの村から逃げた日の夜だ。
「私、あのとき、宗佐の服の袖を掴んだじゃない。結局我慢しちゃったけど……あのときね、一緒に来るかって……嘘でもいいから言って欲しかった」
家や村だけじゃない。僕は妹からも逃げた。当時はそう思っていなかったけれど、とばりが僕の目の前に現れたとき、僕が妹から逃げたことを否が応でも突きつけられた。
「別に、私、あの家に戻るつもりはないよ。ただもう一度、最後に秘密基地に行きたいだけなの。私と宗佐の、二人だけの秘密基地」
「……そこが、今日の目的地の、できるだけ遠いところ?」
「そうだよ。私にとって、本当に遠いところ。だって、あの村と茅ヶ崎以外に、知っているところなんてないもの」
振り返って僕と顔を見合わせるとばりは、今にも泣きそうな顔をしていた。歩くのを止めて、彼女の顔の右半分を覆う火傷の跡を撫でる。僕が彼女を守らずに逃げたから、彼女は僕の分まで罰を受けた。
僕ととばりは田舎の山奥の小さな集落で生まれた。金物職人として県に技術者として認められながらもその粗暴な性格で仕事がない飲んだくれの父親と、「こんなはずじゃなかった」が口癖のヒステリックな母親。それでも僕ととばりは幼い頃は比較的のびのびと暮らしていたと思う。ぼんやりして斜に構えた僕と違い、誰にでも物おじせず、利発的なとばり。対照的であったが、仲はいいと思う。
山の中だからいつも村の子どもとゲームとは無縁の放課後を過ごしていた。AIもバーチャル技術も、何もかも発展した世の中とは全く違う、前時代的遊戯だ。
その中でぼくととばりのお気に入りは家の裏の林を抜けた先にある、洋館の廃墟だった。特に誰か他の人が使っている様子もなかった為、ここが自分たちの居場所だという気持ちが自然と強くなった。庭は村ではまず見かけることがない、昔の入居者の趣味らしいハーブの類が庭に跋扈していて、それが少し不気味だった。
父が借金をしているのは知っていたけれど、どうやらそれを医者の家系の柏家が肩代わりをしてくれたのを知ったのは、とばりが十歳年上の柏豊住の婚約者になったことのを知ったのは同時だった。集落の結束と治外法権を強める為に柏家は集落の中の若い女としてとばりに目をつけた。もう日本は何十年も前から高齢社会が進んでおり、ここも限界集落と呼ばれる社会の一つであった。数少ない小娘の中から一等扱いやすい家の娘であるとばりが選ばれたことに僕は嬉しいとその瞬間は思ったのだ。唯一の村医者として柏家はこの集落ではかなり裕福だから、きっといい生活をさせてもらえるだろう。集落の中央に屋敷を構える地主の家の次に有力者とされる家の息子と婚約が決まったことについて、両親はひどく喜んだ。そこからだ、地獄が始まったのは。
とばりは柏家に捧げられる女として、その日から花嫁修業が始まった。朝日と共に起き、家族が寝たら寝てもいい。多分殴られる回数は僕よりとばりの方が多かった。僕は何故喜んだのだろう。そう勝手に後悔するくらいには彼女は数少ない自由すら奪われた。もう秘密基地に行く暇もない。両親と僕が食事を摂る間、とばりには何も与えられなかったことも数えるのをやめるくらい何度も何度もある。
本当にとばりは何でも知っている様な子どもだった。秘密基地の開けたホールで風に揺れながら彼女の知っていることを聞いて、相槌を打つのが楽しかった。もし普通の子どもならどんどん教育の機会を与えられたかもしれない。でも僕たちが生まれたのは百年以上も前の慣習をせっせと遵守する檻の中だったから、彼女は僕が家を出ていった後、高校を中退させられ、そのまま柏家にお嫁に行った。
それから三年、彼女が僕の前に現れた。
腫らした顔の頬に大きな火傷の跡を作り、服は薄汚れていて、靴は半分壊れていて切り傷も沢山作っていたとばりが、腹を不自然に膨らましたとばりが。僕の大学に来て、僕を探してやってきた。
「私ね、逃げてきたの。一人で逃げられたよ」
顔をぐちゃぐちゃにして僕にそう言うと、とばりはそのまま倒れてしまった。
話を聞くところによると、嫁げば若奥様として少しは楽になれるかと思ったけれど、「慣習」が社会全体に広まり、「個」としての枠組みが薄いあの集落では、「家」というのはどこも一緒だった。若い内はともかく、家父長制の機能の一つになっていく親世代はとかく、この全体主義的国分法を順守しようとする。幼妻を虐待する十歳年上の夫、義理の両親から召使い未満の扱いを受ける日々。こんなところで生きていかねばならないのか。とばりの絶望は重く深かった。
決め手となったのは、妊娠したとわかったときだった。まだ二十歳にすらなっていないとばりにとって妊娠はただ恐ろしい儀式でしかなく、自分の母親や姑を見て、どうして母親になりたいと思うだろう。とっさに彼女は自分の腹を殴りつけた。何度も何度も殴りつけた。それを見た義父が、ガソリンとライターで彼女の顔を焼いたのだった。
ついに彼女は限界を迎えた。「兄の為に両親の仕打ちに耐える必要ももうない」。掴み取った現金を片手に、着の身着たまま集落を飛び出した。
出ていくとき、とばりに逃亡ルートを教えていてよかったなと思う。僕は彼女を助けられなかったけれど、僕が使った道順と、大学の名前を彼女が覚えていてくれたことはよかった。
しかし僕は、彼女を見て、地球最後の日まで彼女への罪悪感を抱き続けることになった。
一体どれだけの時間を歩き続けていただろう。電波も弱くなり、家の数も少ない。この辺りの人も皆、地下シェルターの中に消えてしまったのだろう。僕ら以外に人間はいない。蛙の鳴き声と田んぼ道がどこまでも続いている様な錯覚。
「あの駅が、集落からの最寄り駅だよ」
三角の屋根が特徴的な無人駅だ。この近くに僕たちが通っていた中学校や高等学校がある。ここまで来ると流石に懐かしさを覚える。帰ってきたんだ。
そこを通過して、南側に回っていくと、誰の手入れしていない山の入り口がある。よく知っている道だ。暗闇の中、スマホのライトを導に、とばりの後を僕が歩く。
「宗佐、見て」
暗闇の中からとばりの煙草の焼き跡だらけの腕が伸びてきて、僕の肩を叩いた。
「見える?」
彼女が指さす方を見れば、無秩序な杉林の内の一本だった。木の皮を剥がして、小刀か何かで幹を削った痕跡がある。
「私が出ていくときに、印をつけておいたの。これを目印にすれば、秘密基地に行けるから」
「手際がいいね」
「でしょ?」
暗闇の中でもわかるくらい、彼女は機嫌よく笑った。
「一本印があったら、その木の隣にあるどれかの木にはまた印があるのよ」
元々とばりは手際のいい女だった。多分、秘密基地で遊んでいた頃のとばりのまま成長していたら人の話もよく聞くし、料理のよくできる女になっていただろう。人の話を聞けば傷つけられるし、料理を褒めてもらえるほど、彼女の周りの人は優しくなかった。段々彼女にとって家事とは何が何でもやりたくないものになっていった。
三十六個目の木の幹の印を見つけたとき、スマホのライトに照らされて小さな洋館が顔を見せた。僕もとばりのあれから随分時を経て変わってしまったのに、秘密基地は変わらないままだった。
玄関から入って、靴は脱がない。埃っぽさが嫌だったけれど、僕ととばりと秘密基地という組み合わせが今は愛おしかった。
「やっと……着いたね」
大好きなホールも、何も変わっていなかった。大きく窓が開けていて、庭が一望できる。床にぺたっと座ると酷使された足が悲鳴を上げた。
「疲れたね」
「コーヒー飲む?」
「うん。ミルクが入っているのにして」
僕がミルクコーヒー。とばりがブラック。最後の晩餐だ。
「……とばりは、いつかここに戻ってこようと思っていたのか?」
でなければ、杉の木に印なんてつけないだろう。
「私ね――未練がましいんだよ。宗佐より、ずっとね。私もここにもう戻る気はなかった。でも戻ってきちゃった」
「僕もだよ」
「宗佐に会えたときね、傷ついた顔をしていた。私の顔がひどかったからだよね。でもそれ以上に私がここを思い出させるからだよ」
「そんなことはない」
そんなこと、あった。彼女を助けられるのは僕しかいなかったのに僕は彼女を捨てたのだから。
だから、今日しか彼女に報いることができないと思った。焼き爛れた顔で安心した様に僕を見るとばりにどうすればいいのかずっと考えていた。それだけでなく、僕は。
「私をもう見たくなかったのに、私が現れたから」
僕も貧乏学生の身なんだ。あまり面倒は見れないよ。
彼女がいるんだ。悪いけど夜になる前に帰ってくれ。お前も年頃だしわかるだろう?
同棲する。住所は教えるけど、頼むから来てくれるな。
僕が集落を出るのに必要な金をとばりが助けてくれた様に、とばりのことを助けてやれただろうか。答えは否だ。彼女を助けるどころか、彼女を疎んでさえいた。過去の苦しみを象徴する女だった。まるで僕が被害者の様にすら思っていた。その罪を今日しか購うことができないのだ。
「未練がましいのよ。私。豊住さんが――私の旦那様だった人ね――がブラックコーヒーしか飲まなかったの。私いつも豆を挽いてお出ししていたの。ミルクとか、砂糖で味をごまかせないから本当に嫌な仕事だった。でもコンビニで売っているのはいいよね。初めから完成されているもの……」
座りこんだ僕の目の前に立って、見下ろしている。頬の火傷の跡に涙が伝っていた。彼女の細い腕を引き込み、抱きしめる。
「もういい。もういいよ。地球だってもう滅びる。もうきっと地上には僕たちしか人間はいないよ。誰もとばりのことを怒らない。誰もとばりを傷つけない。今度こそ連れていくから。今日とばりが僕をここまで連れてきたみたいに、僕がどこにだって連れていく。完璧じゃなくていい。好きなことをしていい。一日三食食べていい。自分を大切にしていい」
腕の中で、嗚咽が聞こえる。シャツの袖が濡れるのを感じながら、ようやく僕はとばりに報いることができたのかもしれない安心感で、息をついた。
モバイルバッテリーで充電しながら、スマホでラジオを聞くと、どうやら巨大隕石落下予測時刻まであと一時間ほどらしい。つまるところ僕ととばりの余命も残り一時間である。
「そういえばだけど、なんでとばりは柏の姓を名乗っているんだ?気にならないの?」
「今となっては、八幡も柏も一緒だよ。それに、私は宗佐と結婚したかったから、それでいいの」
「僕と?お前の齢で兄貴と結婚したい妹は珍しいな」
「宗佐は、元カノと家族になりたくて恋人になったんでしょう」
「別にそれだけじゃないよ。ゆくゆくはそういうお互いに居心地のいい関係でいられたらって話」
「じゃあ、私でいいじゃん。私ならずっと宗佐の隣にいられるし」
「……そうだね」
それを聞いて思い出したことがある。
「子どもの頃、ここで結婚式したな。とばりが柏さんちの許嫁になる直前に、お前が言い出して、ここで」
多分僕の知らないところで話は進んでいたのだろう。自分が年上の男と結婚することを知っていたとばりは、僕に代理結婚式ごっこをしようと言ってきた。昔の西欧の皇族の姫が他国に嫁ぐとき、事前に自国で兄を代理の花婿として結婚式を挙げるのだと。僕はその頃には高校生にはなっていたけれど、夢見がちな妹の懸命なお願いにただならぬものを感じて、そのごっこ遊びにつき合ったのだ。
「代理結婚式を昔のヨーロッパ皇族がやっていたのは本当。それに、柏家に嫁げば柏家で結婚式をやるんだから、八幡家の私が八幡家の兄と代理結婚式をやってもいいでしょ」
「どんな理屈だよ」
「うん。どんな理屈でもいいから、宗佐と結婚したかったの」
しんみりと言った後、恥ずかしくなってきたらしい。ペットボトルの残りをいっぺんに飲み干す。
「そっか。……僕も、とばりのこと愛しているよ。家族だからね」
「よかった。ここでじゃあ地球も滅ぶし、結婚式ごっこをやろうと言い出す二十六歳男性じゃなくて!」
立ちあがって、大きな窓を背に、彼女は僕を見下ろす。先程の様な悲壮感はない。滅びゆく地球に、さよなら。またいつか会いましょう。明るい別れを、彼女は切りだそうとしている。
「愛しているよ、宗佐」
これに答える言葉はもう一つしかなかった。
「愛しているよ、とばり。一緒に行こうか」
うん。どうか連れて行って。
微かな口の動きだけで、そう言っているのが伝わった。それでいい。
滅んだ世界に沈んでいく。視界の端で彼女が安心した様に笑っていて、それが本当に嬉しかったから。
100円コーヒーが!!!!飲みたい!!!!