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fgoに御陵衛士が登場したので2005年のブログデータを引っ張り出して来た


みなさん、fgoで今開催中のイベント『激走! 川中島24時 ぐだぐだ超五稜郭 殺しのサインはM51』はプレイなさっていますでしょうか!!私普段はあんスタのあれこれでここのNOTEを書いておりますが、20年ほど前の若かりし頃に幕末恋華新選組という乙女ゲームから幕末志士の伊藤甲子太郎の沼にドボンとはまりまして(ゲーム内では非攻略対象だったのですが何故かすごくすごく大好きになってしまって…)。
調べてみると、その時分に京都を旅行した際のことを記録したブログのデータが残っていました。fgoで取り上げられたいい機会ですし、今読んで色々思い出して懐かしくなったのと20年前の自分の文章が普通に面白かったので、油小路を訪ねた辺りをまるっと転載します。大河ドラマの次の年なので、「新選組!」の話も少し出ています(乙女ゲーですが、私は発売すぐではなく少し経ってからプレイしたので、ゲームの企画自体が大河にのっかったものだったんだと思います)。
当時の文章そのままですので、(オイ!)←一人ツッコミとか、いちいち文章が太字になってたりとか、いかにも老人会らしい痛々しさに満ちた表現もありますが笑、それも面白いので、そのまま転載します笑

以下、2005年9月に京都旅行した際のことを個人ブログに書いたもの(文章および写真)のうち、
・高台寺月真院(御陵衛士屯所後)
・油小路(伊藤甲子太郎ほか暗殺現場)
・油小路で現地の方に説明を受けた詳細
・戒光寺(伊藤甲子太郎ほか墓所あり)
のそれぞれを訪ねた部分について転載いたします。
抜粋ですので、文章が繋がってない部分もあります。また、当然ですがすべての情報は2005年のものですので、建物など現在は変わっているものも多くあると思います。いずれもご了承ください。

1・高台寺月真院

そして、その門からそう歩かずに、道の西側にあるお寺。
そこに、「月真院」とありました。

この看板が目に入った瞬間ああああ!と思わず足を止めて、慌てて駆け寄ります。
で、ここから視点をちょい下に移動させると、こうなります。

御陵衛士屯所跡。
ここだああ!!と、思わずテンションもうなぎのぼり
ちなみに、そこには先客がいらっしゃって。
小さなお子さん(3歳くらいかな?)を連れた夫婦でした。
旦那さんが、奥さんに伊東さんや御陵衛士の簡単な説明をしておられました。
でも、ここで伊東さんたちが生活したんだなーと思うと、なんだかドキドキしますねっ!
さっき私が通ってきた道も、伊東さんたちも歩いたのかもしれないなーとか思ってみたり。
うわあうわあ。
ああ、なんかなんか、…………楽しいですね!!!(笑)
ああああ来てよかった~~~幸せ~~。
てな気分になりました。
何がどうというわけでは決してないのですが。
ただ、彼がここで生活していたらしいということで、もうこの満足度

中には入れなかったので、門の外から撮ってみました。
新撰組から離脱した伊東さんたちは、伊東さんが暗殺されるまでの約9カ月。
このお寺の、2階を屯所にしていたそうです。
てなわけで建物を門の外からぼーっと見たり、↑の写真を撮ったりしている間その親子連れさんもいらっしゃったのですが、私のその様子を見て、奥さんに「写真撮りましょうか?」
とか言われてしまいました(笑)。
なーんか、妙に恥ずかしかったです……(笑)。
でもその時点で、もう歩きまくって汗だくだく、髪の三つ編みももげもげだったので、自分自身の姿は別に写真に残さなくていいなあというかむしろ残したくなかったり
ありがたいと思いつつもお断りしました。
でもありがとうございました
その後旦那さんと、誰も立ち止まらないですねーとか
(結構人通りはあるのにほんとに誰も立ち止まらない)、
看板がもう文字がすり切れてて
(内容は、伊東さんや御陵衛士、油小路事件のことなんかが書いてあるものだったのですが)もうちょっと綺麗にしたらいいのに、なんてことを少しだけお話しました。


2・油小路

さて。
るるぶを片手に西本願寺から南に下り、そろそろ東に入るかな?と思いつつも、そっちを見るとなんだか道がすごく細いです

といっても大通り(塩小路)まででてしまっては行き過ぎてしまうので、とりあえずえい、と左折。

すっごい細い道……ほんとにこの辺りなんだろうか。
まあ、時間はあるっちゃあるし、この際うろつくのもアリかなあ、とか考えていたところ、目に止まったのが

「伊東甲子太郎他数名殉難乃地」

の文字の石碑。

これはまさしく!と駆け寄ると、その後ろの看板には伊東甲子太郎、御陵衛士の説明に加えて、伊東甲子太郎暗殺、油小路事件についての簡単な説明がありました。
表札には「本光寺」。

看板の少し下に、防水加工のビニールが貼られた紙に手書きで、寺院の案内と、伊東甲子太郎についての説明、資料。一人100円です。と書いてありました。御用の方はインターホンを押してください、とあり、門は閉まってしまっていました。

閉まっている門を前に、インターホンを押すのに、かなりの勇気はいったのですが、でもここまで来て、諦めて帰るのはどうしてもイヤだなあ、と思っていたところ、道の向こうからレンタサイクルで颯爽とカップルのお兄さんお姉さんが登場。

お兄さんが足を止めている私に気づいたのか、彼女に声をかけ自転車を止めます。
石碑を見て納得し、なるほどここが……と看板の説明を読んでました。
「伊東って誰?」
という彼女さんに
「新撰組に途中から入った人なんだよ」
と説明してました。

そこで、勇気を出して

「すいません……一人で入るの勇気がいるので、よかったら一緒に入っていただけませんか……?」

とお願いしました。
お兄さんは少し考え、
「いいですよ」
と言ってくださいました。

ああ、いいお兄さんだ!ありがとう~~!

で、インターホンを押したのですが。
……それがね、全く反応がないのです。

何度かは押してみたのですが、やっぱり反応がなく。
あまり何度も押すのもどうかなあとも思ったりして、3人で、困っていたんです。

そしたら、
「出てこんなぁ」
といいながら背後からアロハシャツのようなものを着たあやしいおじちゃんが登場(笑)。

しかし。
今回の旅で、この出会いが最高の出会いでした。


そのおじちゃん曰く、このお寺の住職さんは結構お年の尼さんなのだそうで、足も悪くされていて、すぐには出てこれないのだそうです。

また、昔は門を開けていて自由に入れ、門の中にあるという、伊東さんがよりかかって絶命したという石なんかも見れたらしいのですが、2回ほど空き巣に入られてしまったらしく、今は閉めている、ということなのだそうです。

うーん,確かにそれなら仕方ないなぁ、とおじちゃんと世間話なんかをしながら待っていました。

で、おじちゃんが一言。
「あんたたち、去年は来てないの?」

去年は本当にドラマの影響で、ものすごく人が来たのだそうです。
ここにも、土日になるともうひっきりなしに。
時には数十人単位の団体さんなんかも来たそうです。

壬生にも行った?
と聞かれ、行きましたよーと答えたのですが、
こっちなんて去年はもうすごいことになっていて、八木邸にいたっては、土日になると入るのに2時間3時間待ちアタリマエの世界だったそうです。

ひぃって感じ。

にしても、壬生なんかでグッズが揃ってたのは、ドラマの影響も大きいだろうし。
ある意味、人より微妙に遅れてブームが来るのって、よかったのかも、とか思ってしまいました(笑)。

さてさて。
いくらか待ったのですが、住職さんは出てこられませんでした。
しょうがないなぁ、とおじちゃんは苦笑しながら、ここで渡してる資料だったらうちにもあるよ、とのこと。

一緒に待ってくれたカップルさん(横浜から来られていたそうです)とはお別れして(ありがとうございました!!)、おじちゃんについて行くと、お寺からははす向かいになる散髪屋さんへ。

中では息子さんとおぼしき方と、奥さんとおぼしき方がいらっしゃいました。
そこで、おじちゃんに資料をいただいて、その説明までしていただくことに

2枚は、伊東甲子太郎や油小路事件に関する基本的な説明でした。
それから地図の入ったわかりやすい資料、それから実際の道を見ながら、ここの角がここ、と教えていただきました。
その過程で伊東甲子太郎暗殺と油小路事件の概要も教えてくださいました。

おじちゃん:「そこでな、おびきだされて来た藤堂平助と、あと二人が殺されたんよ」
雨音:「あ、えっと……。毛内さんと、服部さん……?」
おじちゃん:「……アンタ、勉強しとるなー」
雨音:「あはは……付け焼刃なんですけどねー。」
おばちゃん:「まあ、ここに来るような人は、やっぱり勉強してから来てはるわなー。」

とかって会話したりしてました~。
他にも私が日帰りで一人で岡山から来た、とかいう話なんかも交えつつ、その他にも、色々なお話をしてくださいました。

伊東さんがよりかかって絶命したといわれている石は今は本光寺の門の中にあるけど、当時は門の外にあってお寺の改築の時に門が石より外に出たのだそうです。
というのも、左右隣を含め、同じ道の家が昔よりも全体的に前に出てきてしまっていたため、改築の時それに合わせたのだそうです。

また、当時よりも道が全体的に広くなっている理由は、大戦時に古い家は燃えやすいから、というのでできる限り潰してしまって、そんな経緯で平地になったところへ、戦後区画整理をしたからだそうです。

あと、近藤さんはめっちゃ妾宅に来てたとか(笑)。
すごい頻度だったよーとおばあさんのおばあさん?から伝え聞いているそうです(笑)。
なんでよりによってそんな情報を伝えきいているのか(笑)。

そんな情報を交えつつ、なんと冷たいお茶までいただいてしまいました!
いやもう、ありがたいです、本当に。
暑い中よう来た~とかって出してくれたんですよ。
いい人だ~~。
あ、でも資料代の100円はちゃんと払いましたけどね(笑)。

で、去年の大河の話にも少しなりまして。
そこでこんなものを見せていただきました☆
すごーい。すごーい。
おじちゃん、ナイスアイテム!!

来られたそうです。
撮影で!
わほー。すごーい。
B4サイズに現像して、ラミネート加工されてました(笑)。

奥さんの
「好きな方は、これを写真に撮って帰られるわ」という言葉に、奥さん!それだ!!と私もぱちり。

大河で伊東甲子太郎役と藤堂平助役をされてた、谷原さんと中村さんですね。
すいません小さくてわかりにくいかもですが。

右上の写真で谷原さんと一緒に写ってらっしゃるのが、本光寺の住職さんなのだそうです。

この時は俳優さんが来るっていうのでかなりてんやわんやしたそうで。
お年の住職さんを手伝って、おじちゃんたちも机を出したり色々したそうです。
へええ。


で、4枚の資料のうち最後の1枚なんですが。
そこには新聞記事のコピーがありまして。
東山の泉涌寺、その手前の戒光寺というところに、伊東さんや藤堂さん以下11人の御陵衛士関係者のお墓があるのだそうです。

去年のドラマの影響で、本光寺や、この戒光寺に来る人がものすごく多く、これを放ってはおけない、いい機会だということで、なんと幕末ぶりに、彼らの法要と座談会をした、というものでした。

これが去年の11月18日。
つまり、伊東さんたちの命日です。

そんなの私初めて知りまして。
座談会には伊東さんのお姉さんの子孫にあたる方
(神戸で英語の先生をされているとか)
なんかもいらっしゃったそうです。

座談会については、悪役イメージのある彼ですけども、やっぱり勤王家としての彼の姿を知ってもらえる機会になったらいいなあという感じのことが書いてありました。でも大河では微妙に悪役だったよネ。

奥さんは、まあこれから2、3年はするんじゃないのかな~と笑っておられました。
……今年、何曜日だろう……。
あ、金曜日だ。
…………………………………(←なにかよからぬことを考えている間)。

ただ、私この戒光寺は完全ノーマークだったのですが、それを言うと丁寧に行き方を教えてくださいました。

駅から東福寺行き、208番のバスに乗ればいけるよ、
泉涌寺道で降りて、泉涌寺まで行かないで、その門の手前に看板があるから、わかりやすいよ、と。

208番、208番と念を押されつつ(笑)、お礼を言いながらおいとましました。

くそう。法要行 こ う か な !(待て)(※2023年注:行ってないです)

でですね。
本当言うと、この時点では少し迷っていたんです。
戒光寺に行こうかどうしようかと。

でも、ここ(本光寺)から駅まで本当に近くて、その駅からバスで10分もあればいけると言われましたし。
しかも島原に行けなかったからか、実は微妙に時間が余っていて3時すぎ。
5時すぎに十分帰ってこれるよなあ、と戒光寺に行くことに決めました。


3・油小路で現地の方に説明を受けた詳細

場所の大体の地図としてはこんな感じです。

中心を通る縦の通りが、油小路です。
北西に西本願寺、少し南に駅があります。
近くに本願寺なんかもあり、昔は油を売るお店がたくさんあったから、だそうです。といっても油はやはり家の中が汚れやすいし、ということで今はもうありません。

この地図をベースに、伊東さん暗殺及び油小路事件について書き込んでいくと……

はい。とりあえず伊東甲子太郎暗殺に関して書き込むと、こんな感じ。

近藤さんの妾宅を出た伊東さんは、元々籠で帰ることを勧められたけれども、自分も妾宅に寄って帰るから、と断って、徒歩で出かけたそうです。
そこで待ち伏せていた新撰組隊士に襲撃をうけ、槍で肩から喉にかけて刺されたそうです。
瀕死の重傷を負いながらも反撃。
一人を切り捨て(ちなみに生涯で人を斬ったという記録は、この一件しかありません)、本光寺の前まで逃げますが、石によりかかり絶命します。

その後、彼の遺体は御陵衛士をおびき出す目的でさらすため、七条油小路まで移動させられます。

続いて、油小路事件。

伊東さんの同士である御陵衛士たちは、役人から伊東さんの死亡(一説によれば怪我)を知らされ、屯所である月真院から彼の遺体を引き取りに来ます。
そこで待ち伏せしていた新撰組と斬りあいになり、

藤堂平助
毛内有之助
服部武雄

の3人が命を落とします。
他の衛士は、逃走します。


ということで、教えていただきながら、この道を実際に歩いてみました。

A

木津屋通、伊東さんの襲撃された場所。
伊東さんの進路とは逆を向いて撮りました。
左手に、今回お世話になった散髪屋さんがあります。


本光寺を正面から撮影しました。


C

本光寺の前の、石碑と看板です。
看板には御陵衛士、伊東甲子太郎暗殺及び油小路事件の説明があります。

ちなみに、絶命した場所といわれている石は門の中です。
これは、当時は門の外にあったのだそうですが、お寺の改築時に石より外に門を作ったのだとか。
なので、お寺に逃げ込んだわけではないそうです。

D

本光寺を背に、油小路通を七条に向かって撮影しました。
こう見ると、なっがいなあ……。
ていうか、死んでまで、こんなにも引きずられていったのか伊東さん……。
と思うとすごく悲しくなりました。


E

油小路七条、つまり油小路事件の現場を南東から撮影しました。
写真の説明ごちゃごちゃしてますが、上記の地図と照合していただけたらいいかと思います。

F

Eとほとんど同じ場所ですが、Eよりは少し西から撮影しています。
藤堂さんの遺体の場所がありませんが、多分、この時私が立っていた辺りじゃないかと。
……そう考えるとちょっ、と、うわあな感じ(汗)。


4・戒光寺

さてさて。
ナイスキャラなおじちゃんに別れを告げ、痛い足を引きずりつつ、駅まで帰ってきました。
駅までほんとにすぐだったから帰りやすかったですしね。

えーと、実は今回、バスは使わず、全行程歩きで行こうと思っていたんですが、そういう自分ルールを作っていたのですが。
戒光寺の場所がイマイチよくわからないことと、帰りのバス発車まで2時間半という微妙に結構きわどい時間なことから、バスを使うことにしました。
ていうかここで使うんだったらはじめっから使ってたよ、とも思ったりしたんですが(笑)。

でも、一日フリーパスが500円。
ここで戒光寺まで往復しても、片道220円の440円。
一応今までの徒歩も……無駄ではない、かな

しかし、15分についたバス停で見た時刻表。
13分
があったヨー。 
そして次は38分だヨー。

…………待 ち ま す よ !!

てーことで、だらだらと待ち、あまりの暇さに壬生寺で買った伊東さん名前入りキーホルダーを鞄につけたりしつつバスに乗り込みます。
三十三間堂経由のバスで、そこでたくさん人が降りていきました。
で、泉涌寺道で降車。
220円をちゃりーん。

帰りのバスがなかったり、間に合わなかったりしたらコトなので、とりあえず目的地に背を向け横断歩道を渡って確認。
とりあえず、帰りの方も20分に1本ほどあるようなので安心して目的地へ足を進めます。


泉涌寺へと続く坂道を、ああ足に響くなぁ、と思いながらえっちらおっちら登ります。
坂の周りは、閑静な住宅街という趣。
結構よさげな家が建っていたり。
そのまま登ってると目の前になんかどどーんと門が見えました。

門の向こうに入り口みたいなのが見えて、大きなお寺だな……と。
このまま行くと泉涌寺?
て、そこまで行ったらダメなんじゃなかったっけ……と、視線を下ろすとそこに。

この写真だと見にくいですが、中央左の木の看板に「戒光寺 墓所」とあります。

ふむつまり。
この奥のお寺が戒光寺なのでしょうか?
まあとりあえず目的地は墓所なので、この看板の手前を左に入ればあるようなので行ってみます。

そこには家の裏口にあるような胸くらいまでの高さの鉄の扉があって、
「お参り以外の人は入らないでください。特に犬の散歩厳禁」と書かれてました。

……ああ、うん。
犬とかね。
どこも大変なんだなーと思いつつ、扉を開きます。


で、その扉を入ってすぐ。

「御陵衛士墓所」の石碑の奥に、4つの墓碑がありました。

左から毛内さん、伊東さん、藤堂さん、服部さん

周りに数名の墓碑があったのですが、この辺りも御陵衛士ゆかりの皆さんの墓碑なのだろうかな、とぼんやりと見つめました。
よく知らない名前が並んでいました。
すいません勉強不足です。

とりあえず、伊東さんの墓碑に向かってお参り。
心の中で色々と報告しました。
内容は、まあ……適当に想像か妄想かしてください。
多分、妄想の方が内容が近くなると思います

ま、さすがに故人の墓標の前で、の報告なので。
それなりです。ご安心を(笑)
萌えーとか言ってませんから(笑)。

そりゃ元々は萌えですけど。
キャラクターとしての伊東さんに萌えて、今回のこの旅も始まり、この場所に来てしまったわけですけど。
でも、1カ月というにわか仕込みではありますが、私なりに彼のことや彼の生きた時代について勉強するに従って、本当に尊敬できる人物なんだなって思うようになったんですよ。
はい。
本当ですよ?

で、一歩引いて御陵衛士の皆さんにお参りして、そろそろ帰ろうかな、と思ったのですが。

ふと、目に入った藤堂さんの墓碑の「年二十四」の文字に、涙が出ました。

若すぎるよね、24歳って。
私よりたった2つ年上だなんて。
そう思って隣を見れば、伊東さんは「年三十二」でした。
後の二人は……すいません。不確かなデータは載せたくないので、うろ覚えの情報は書かないことにしておきます。
でも、彼らだけ伊東さんよりものすごく年上ってことはないだろうと思うので、同じくらいだと思います。

……はぁ……。
ほんと若い。
若すぎるよ。

もちろん、年だけでどうこう、ってわけじゃありませんけどね。
今とは時代も価値観も違いますし。
長い人生をただ無目的に生きるよりも、志を遂げるため短い人生を生き抜く、そういう価値観もあるのかもしれません。
……でも、志を遂げられなかったんだよね、彼らは。

ああ、本当に、どれだけ無念だったろう。
そう思って、ひとしきり泣いてしまいました。

誰も通りかからなかったけど、もし、夕暮れの墓の前で一人泣き崩れる私を見た人がいたらどう思ったかなーとちょっと怖いです(笑)。
だーいぶ、自分アブないなーという自覚もありましたが(苦笑)。
でもその時はなんか、感極まっちゃったんですよね~。

そして何も考えず完全に手ブラで来てしまったのですが。
せっかくのお彼岸だったのにくそう自分もっと考えろよ
……次は、絶対お花を持って来ようと思いました。
もちろん衛士の皆さん全員分。

元々お供えしてあったお花もあったのですが、ややしおれ気味で。
2~3日は経ってるかな?という雰囲気でした。
でも、このお花があるということは、つまりどなたかがお供えしてらっしゃるのですね。
そう考えると少しだけ、暖かい気持ちになりました。

ここにUPするために写真を撮ろうかと一瞬考えたのですが、でもそれって……ものすごーく、罰当たりだよなあと。
でもUPもしたいし……と、葛藤しながらカメラを回してたら、あれ、回りきらない
つーことは、あれですわ。
撮りきっちゃったのね。
さっきの看板を撮った一枚がラスイチだったのね。

なんだか、伊東さんに撮るもんじゃないよ、としかられたみたいだなーと思って、苦笑して、もう一度墓標に向かってぺこりとおじぎをしてから、坂を下りました。

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ここまで2005年の抜粋です。というか、当時から一人旅してて…このあいだ名古屋へ一人旅行ったばかりの私は、行動や思考パターンが昔から変わらないなとつくづく…笑
fgoで、服部さんの名前を最初に見たときに覚えがなくて、でも御陵衛士の単語には絶対覚えがある、しかも油小路って言ってる、これは絶対に伊東さんゆかりの人だ!と記憶がよみがえり、案の定その後伊東さんが登場したわけですが…こうして見返してみると、当時の私は服部さんの名前もちゃんと言えてますね…。自分の記録から、色々と当時勉強したことが思い返されて存外に楽しかったです。ちなみに私は八犬伝や水滸伝も通っているので、去年の「南溟弓張八犬伝」も「108人のハロウィンリベリオン 小竜娘水滸演義」もすごく楽しかったです。今はメインはあんスタで、イベントの時と新章来たときだけfgoに帰って来る人になってますが、こうして元ネタを知ってると「お、そういう味付けで来るか」と楽しめますし、そこから元ネタに興味を持ってくれる人がいると嬉しいですね。
もし、今回のfgoイベントや、私のこの過去の恥を発掘したことで、御陵衛士や伊藤甲子太郎、服部武雄に興味が出た方がいらっしゃったらとても嬉しいです。ありがとうございました。

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