桜の下に埋まっても、きっと綺麗には咲けない

早く死にたいとか言いながら、iDeCoを登録したのは矛盾していて笑ってしまう。
現代医学で、余程のことがなければ初回の年金受給日までは生きられるはずだけれど、平均寿命を考えると気分が沈んでくる。
まあ暫くは生きる予定だけど。ボーナス出るし。

30歳を超えて体重が10キロ増えたあたりで、一人で飲んでいても声をかけられることがなくなった。人前で取り繕うことをしなくて良いという楽さが心地よい反面、こんな私でも若さには価値があったのか、と感じた。
名誉男性を目指すしか生きる術がなかった人間が、急に自分の性を全て受け入れて生きるのは難しい。
増えた体重だって、本当は落としたいし憧れの体形もある。自分に染み込んだルッキズムからの脱却は永遠に出来る気がしない。
この前、新宿でセクキャバのスカウトに声をかけられたことで「まだ女としての価値があるのか」と一瞬でも思ってしまい、自分の価値観に落ち込んでいる。別に否定するほどではないとしても、自分で自分の身体の価値を値踏みしている気がしてしまう。同時に感じた「私に声をかけるくらいキャストがいないのか」という不景気のほうが印象に残っているけれど。

自己肯定感の低さと高い自尊心は、盾であると同時に自分を守るための武器にはなっていたが、武器の扱いが下手すぎて気付けば自分自身がボロボロになっている。
若いうちについた傷は奥深く刻まれて、ずっと心に残っているけれど、歳を重ねることで表面の皮膜がどんどん分厚くなるので気づかないふりができる。
逆に、最近ついた傷は、どんなに浅くても治りが遅くていつまでもぐちゃぐちゃになったままだ。ただ、傷は残るか消えるかの判断はなんとなくつくようになったし、多少の手当が自分でできるようになった。年の功というなら、これが該当するんだろうな。
勉強も運動も仕事も上手くできなくて諦めていたのに、何故人間関係だけは諦めなかったのかと最近考える。諦められなかったというよりも、人間関係にも才能が必要であることに気付けなかっただけである。
仕事の場でコミュニケーションスキルと言われたら「なるほどなぁ」と思うくせに、友人とか恋人とか、そんな関係にもスキルが必要とは思いつかなかった。
人と打ち解けて話すまでのハードルが高すぎるが、慣れたらハードルが0になる性質もどうにかしないと思いながら結構な年月が経っている。
「私は良いけど他人を信用しすぎるな」と言ってくれた人が去っていったことがあるので、「裏切られてもまあ良いや」という人たちと付かず離れず遊ぶことが増えた。
お互いに気を使うタイミングや距離感が合う人が増えてきて、これが大人になるということなのかもしれないな、と思ったりもしている。
そんな人たちの中で好きだと思う人が出来ても、壁が高すぎて大体憧れで終わるので、一度くらい手痛い失恋でも体験してみたいが、きっと傷が治らずそこから腐るだけだろう。

私はずっと「宗教が欲しい」と言い続けていて、憧れた人たちの死闘のような感性の殴り合いにずっと惹かれている。「好みのタイプは白馬の王子様」と言っているのと変わらない。
何かの時に判断の基準にできるような、圧倒的な自我、存在感で捩じ伏せられたい気持ちが強い。自分がそんなことを出来ないから、相手に求めてしまう。
食べた林檎が小さくて中途半端にしか身に付かなかった知恵のせいで、終わりが見えないことをやるのは苦手なままだ。
生きるのは向いていないから、薄い自我なんて芽生えなければ良かったと思う。
決して死に急ぐのではなく、生き急いでゴールを早めに見つけたい。
諦念が大切である。地に足はつけるけれど、空は掴めないことをきちんと理解しないと駄目だ。自堕落でも良いが、中途半端な社会性で堕ち切ることができない。やれることだけやって、ダメだったら諦めれば良いのだ。できることよりできないことの方が多いんだから、できることを見つけるために何かに手を出していくしかない。
少ない体力の代わりに燃やせるガソリンが生命力しか見当たらないので、使えるだけ使っていこう。今の未完成な死体の状態から、完璧な死体になれるように。
とりあえず、命が潰えた私を焼くときには鈴木いづみの写真集とロッキンホースバレリーナも納棺してほしい。遺灰をプチトマトの苗にでも蒔いて、私のみっともない写真を生産者の顔として張り出して、ご自由にお持ち帰りくださいとか書いてくれたら面白いのになって思っている。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?