「個人の幸福論」を持つことの重要さと難しさ

今日はこんな本を読みました。

この本は、映画監督の押井守氏が、自分がYouTubeにおいてどんな配信者の配信を見ているか紹介し、そこからYouTubeというメディアの特性や、表現者の心構えなんかを語る本です。

まず最初に、押井氏が紹介する配信者を見ていて思ったのは「いや、全然趣味が合わないな」ということです。僕は、押井氏が監督した作品は結構好きで、それこそ『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』

なんかは、どんなアニメを見るに際しても、まず基準として参照するぐらい、僕のアニメに対する心構えを決定づけた作品だったりするわけです。ですから、そんな押井氏が紹介する配信者ならきっと僕も面白く見られるじゃんないかと思ったわけですが……実際はそうでもない。

ただ、なぜそうなるか理由は明快です。押井氏と自分では、配信者という存在に求めるものが全く異なるんですね。

押井氏がYouTuberに求めるものとして挙げるのは、「個人の幸福論」であると、本の中では語られています。

世にいうユーチューバーって野心があるんですよ。これで有名になりたいとか、大儲けをしたいとか。いわゆる上昇志向がある。でも、このニカタツさんをはじめ、わたしが好きなチャンネルの人にはまずそういう人はいない。本来、YouTubeというのはそういうもんだと思っているけどね、わたしは。自分の好きなこと、やりたいことだけをやって100万、200万の人が集まるとは思えない。本当に好きなことだけだったら、やっぱり10万、20万人なんじゃない?
(略)
『Fラン大学就職チャンネル』もナカイドくんも、やりたいことをやっているだけだから、なかなか20万は超えない。ナカイドくんはもっと増やしたいみたいだけど、まえも言った通り、彼はポリシーがあるので100万なんて絶対にいかない。
わたし流に言うと、みんな自分なりの幸福論を追求しているんだよ。

『押井守のサブぃカルチャー70年 YouTubeの巻』p66-67

YouTubeというメディアの革新的な部分というのは何か?今までのメディアとどこがどう違うのか?さんざん考えた結果が「個人の幸福論」なんだよ。個人の力が及ぶところだけで成立させる幸福論。今回のニカタツさんは、3000円を超えない値段で、いかに自分が幸福感に浸れるかを実践しているということ。YouTubeのおかげで、そういう個人の幸福論が見えてきたんです。

『押井守のサブぃカルチャー70年 YouTubeの巻』p69

要するに、自分が何をすれば幸福になるかが明確に見定められている人が。その幸福になれることをやっている姿を見せる。その光景こそが、押井氏がYouTube上の配信者に求める「個人の幸福論」なわけです。

しかしながら、それはあくまで、「自分が幸福になるためにやっていること」だから、マスの共感を得ることは難しい。だから、押井氏が好きになる配信者は、ミリオンに到達するような配信者にはなれないとも、述べているわけです。

一方で、僕のような凡庸な視聴者が配信者にもとめるのは「共感」なわけです。視聴者に寄り添い、視聴者と同じ目線に立ちながら、配信者のすることに共感させてもらいたいと、思ってしまうわけです。

そしてそのような立場からすると、上記で押井氏が述べるような「個人の幸福論をきちんと持っている配信者」というのは、どうしても孤高の存在として写り、共感の対象とはなりにくいわけです。だから、いまいちのめり込めない。

おそらく、配信者として健全なのは「個人の幸福論」をきちんと持っている方

ただ一方で、押井氏が配信者に求める「個人の幸福論」という要素と、僕のような人間が配信者に求めてしまう「共感」という要素、どちらを持つ配信者のほうがより健全であるかといえば、それは圧倒的に前者なわけです。

何しろ「個人の幸福論」をきちんと持っている配信者は、「じぶんがそれを好きだからやっている」という軸があり、そこからブレることなく活動ができます。もし視聴者が「そんなことつまらないから別のことやってよ」というふうに文句を言ってきても「でも自分はこれが好きでやっているんで」というふうに突っぱねることができる。自分の好きなことをやることが主目的であり、視聴者数とか反応とかはそれに付随する副目的だから。それに必要以上に惑わされることもない。

一方「共感」を求めて配信を行ってしまうと、「視聴者がどんな配信だったら共感してくれるか」という、極めて移ろいやすいものを頼りにしなくければなくなり、常に視聴者の顔色を伺う必要がでてきます。さらに言えば「自分はこういうことをしたいけど、視聴者はそれに共感してくれないだろう」ということはできなくなるから、ある程度自分のやりたいことを押し殺す必要も出てくるわけです。

両者のうち、どちらがより健全な形で配信を行えているかといえば。それは圧倒的に後者でしょう。

しかし「個人の幸福論」を持たないものにも、現代の表現は開かれてしまった

ただその一方で、現代においては、僕を含め、きちんと「個人の幸福論」を持たないものでも、メディア上で表現をすることができてしまうわけです。

もちろんそのような状況に対し、押井氏のようなプロの表現者ならば「きちんと自分が何を表現すれば幸せになるか自覚できない人間は、表現などすべきではない」と言うでしょう。それはもっともです。

ただそのような正論にも関わらず、多くの人はSNSを含めたメディア上で、何かを表現しようとしてしまうわけです。別に「自分はこれを表現として世に出したいんだ!」という思いがあるわけでは何にもかかわらず。

なぜか?僕が思うに、その理由は。表現をしないでいると、自分が社会から無視された「透明な存在」になってしまうような感覚があるからではないでしょうか。

『まなざしの地獄』という、見田宗介氏か書いた社会学の古典的名著があります。

この本は、60~70年代に連続殺人を行った青年の手記から、当時の若者が置かれた状況の苦しさを考察した本で、その中で見田氏は、「地方生まれの集団就職」というふうに、周囲から過剰にまなざされることが、苦しみを産んでいるというふうに述べているわけです。

一方、この本の解説を書いた大澤氏は、60~70年代の若者は「まなざされること」を苦しく思ったが、現代の若者は、そうではなく「まなざされないこと」の苦しみを抱えているのではないかと、2008年に起きた秋葉原通り魔事件を、60~70年代の連続殺人事件と対比させながら考察しているわけです。

そして、そのようなまなざされない人々に対し、「このプラットフォームで活動すればまなざされるようになるよ」と誘惑するのが、YouTubeのような動画配信サイトであり、TwitterなどのSNSであり、そしてさらに言えば僕が今記事を書いているnoteのようなサービスなわけです。

ところが、実際は何も表現したいことがないから、「共感」だったり「バズり」だったりというような、自分の中から湧き上がっているものではなく。視聴者に依存するものに、自らの表現の源泉を求めてしまう。しかしそれは表現者としては、やはり不健全であると言わざるを得ないのです。

「個人の幸福論」をいかに自らのうちに持つのか

このような状況下では、それでも不健全であることに居直らないためには、2つの選択肢があるでしょう。

一つは「自分の中には何も表現したいものがないことを認め、透明な存在として生きる」です。

そしてもう一つは「自分の中に表現したいものを形作る」ことです。今回の記事の文脈で言い換えるなら、自分の中に「個人の幸福論」を新しくつくるということです。

こうやって併置して書くと、一見前者のほうがやさしく見えるかもしれません。ただここで重要なのは「自分の中に表現したいものがない」状況は、そのまま「自分の中に『個人の幸福論』がない」という状況であるということです。要するに、自分がどうすれば幸福になるか、本人がわかっていないわけです。

そんな中で「透明な存在として生きるしかない」と告げられることは、ようするに何も幸福が得られる希望がないまま、ただ生きることを続けなければならないということなわけです。このような無意味さに、人間存在が耐えられるか、僕は疑問です。

だから、わたしたちは自分の中に「幸福論」を持たなければならないのです。

しかし、どうやって?

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