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ガザについて、ぼくが思うこと

上記の署名活動に、自分も署名した。

「当事者に寄り添う」ことはできない

しかし、こういう声明に署名することに対し、何も不安を感じないかといえば、それは嘘になる。

僕は、今回の事件で、亡くなったり傷ついたり人質となったりしている、イスラエル・パレスチナ双方の人々に対して、悲しく思うし、彼ら・彼女がなぜ犠牲にならねばならないのかと、憤りもする。しかし、その悲しみ・憤りは、実際に現地で肉親や友人がそのような目にあっている人の悲しみ・憤りとは比べ物にならないぐらい浅いものだ。

そして、おそらくそのような人々の本当の気持ちといえば、「敵を殺して、自分たちの家族・友を救ってくれ」だろう。イスラエル側からすればその願いは、ハマスやそれに味方するパレスチナ人をせん滅してくれ、ということだろうし、パレスチナ側からすればイスラエルという国家そのものを無くしてくれ、ということになる。

しかし、そのどちらの声にも、僕は与することはできない。僕が与することができるのは、上記で署名したように、とりあえずこれ以上誰かが犠牲になるようなことはやめてくれ、というメッセージなわけだけど、しかしこれは結局、イスラエル・パレスチナどちらにも寄り添わない、傍観者の身勝手な言い分でしかない。

紛争当事者が言うならともかく、第三者や傍観者が言う「平和を」という声は、しかし結局、このぐらい身勝手な声でしかないのだ。

感情からでも理性からでも無く、信条として「殺すな」と言う

だから、もっと身勝手ではないメッセージはないのかと考える。例えば、より自分の感情が揺り動かされる方を支持しようとか(そして、そのための材料はまさしく紛争の現場から絶え間なく供給され続ける)

あるいは政治学者や歴史学者に「どちらが勝利することがより情勢が安定化するのか」「どちらにより正義があるのか」と問うてみて、そこで得られた答えを、自らの答えにしようかと思ったりもする。

しかし、そのように自らの感情、あるいは論理的思考に基づき、どちらかに味方することを決めたとしても、結局それは、その味方の反対側の犠牲を容認することになってしまう。

だとしたら僕は、例えそれが感情や理性に基づくものとして基礎付けできなくても、信条として「誰一人の犠牲も容認しない」と言うしかないと、思うのだ。例えそれが身勝手な信条だったとしても。

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