ある地方の混雑した電車で
今日の朝は、久しぶりに朝ラッシュの電車に乗った。
朝ラッシュとはいうものの、僕が住んでいる地方は東京のような立錐の余地もない大混雑というわけではないので、混雑していても、せいぜい「立っている人が多くて、場所を移りにくい」程度の状況だ。
そして、久しぶりに電車に乗ると、改めていろいろなことを考える。ヘルプマークを付けて、リュックを背負った青年が、「すみません」と言いながら車両を行き来している。座れる場所か、席を譲ってくれる人を探しているのだろうか。立っている僕は、席を誰か譲ってあげればいいと思うのだが、まあ、ヘルプマークというもの自体を知らないと言う可能性もあるしなぁ。
かと思えば、後ろの、おそらく外国人っぽい女性は、スマートフォンを見ながら大声を発している。画面をチラ見してみると、ゲーム実況動画らしきものを見てリアクションをとっているみたいだ。周りはそれを見てあからさまにしかめっ面をするし、僕も少し居心地は悪い。
でもまあ、「電車の中で静かにすべき」というのは、実はそんなに世界共通のルールではない。電車のルールというのは、各国の文化によって大きく違う。例えば数年前に行った上海の地下鉄なんかでは、電車の中で合羽を勝手に販売している人がいた。おそらく、法律とかではいけないことなのだろうけど、周りの人は特に気に留める様子はない。この国では、それが日常らしい。
かと思えば、同じ中華圏でも台湾の地下鉄なんかは、電車内で飲食するのが禁止だったりする。ペットボトルを飲んだりガムを噛んだりするのも禁止だ。それを知らない日本人観光客が、電車内で飲食をして注意されるというのは、海外旅行初心者にあるあるネタだ。
ことほどさように、国ごとに「電車内ではどう過ごすべきか、何をしてはいけないか」というルールは異なる。
といっても、「ここは日本なのだから、郷には入れば郷に従えで、日本のルールに従うべきだ」という考え方もあるだろう。ただ一方で、インバウンド時代になってくると、日本国内でも、日本人がより外国人の方が圧倒的に多い場所も出てくる。ニセコなんかではもはや町中を歩いているのはほとんどが外国人らしい。
とすれば、例えば電車・バス内で、日本人が自分だけで、ほかは全員外国人、運転手さえ外国人労働者であるときに、そこに適用されるのは日本の文化ルールであるべきだろうか。僕は、迷ってしまう。それこそ「郷に入れば郷に従え」で、その場でなんとなく通用しているルールに従ってしまうかもしれない。
あるいは、そういうグローバルな状況に対応するために、文化に作用されない、世界共通のルールを作るべきという考え方もあるかもしれない。そのルールを作る際には、利用者の全員が苦痛・迷惑を受忍限度以上に被らないということが、策定の基準になるだろうか。
ところが、「何を苦痛に感じるか」というのも人によって異なる。先の外国人は、別に電車の中で大声が発せられることをそんなに苦痛に思わないのだろう。あるいは、「大声を禁じられること」が苦痛になるという場合もある。トゥレット症というものが、その一例だろうか。
他方で、「感覚過敏」というものもある。障がいの一つで、周りの音などが気になって不安になるというものだ。
このようなことを考えると、「万人が幸せになりそうな電車内のルール」というのも、自明ではないなと思う。
幸い僕は、大声を発する発作もなければ、その逆に大声が耐えられないという症状もない。
そんな僕が思うのは、まあ、世の中には多様なルール・障がいがあり、それのどれが正解ということもないのだから、とりあえず「いろいろなルール・障がいがあるんだな」と知っておくことが、こういう状況でもイライラせずに済む方法なんじゃないかということだ。敢えて難しい言葉を使えば、その程度の受忍は、マジョリティ特権の代償なんじゃないかなと思ったりする。
もちろん、その考えを他の人に強制するつもりはないけど。
あ、でも、一つどうしても思ったことがある。
大声を出している外国人に、席に座りながら、あからさまに怪訝な目を向けていたおばさん、でもあなたが、ヘルプマークを付けた青年が前を通ったときに、目を背けてたの、見てましたからね。