自分史を書いた

小学生の頃から25歳になるまでの今を纏めた年表を作った。
自分がこれまで何を考え、何を感じ何に向かって来たのかを
可視化することで、これから何をやりたいか行き詰まっている私の地図に
なるかも知れないと思って。

これまでの自分史なんて正直、書いたって大して大きく状況が変わるわけじゃねえだろと思っていた。幼い頃からの興味や取り組んできたこと、苦手だった授業を思い出しながら書くことで何か発見があると言う。

これまでの自分だったら、めんどくさいからやらなかった。この部分はきっとスキップできる無駄な要素だと判断して、やらない選択を取っていたと思うけど、自分を知ることは私にとっての最重要課題だし面白いかもと思って、やりました。

自分史を書いてみた率直な感想は、
"やってもやらなくても大きい違いはないけど、確かに自分自身の変化を言語化できたので手応えを感じた。"という感じです。

頭の中で反芻しているぼやけたイメージを無理やり言語に落とし、再認識させることで、今現在の自分自身が描いている"これまでの自分"と言うセルフイメージをなんとなく崩すことができた。

思っている自分じゃない自分が出て来て、発見がやはりあった。

一つ大きい発見があった。
小学校、中学校の授業で、総合学習の時間について。

みんなが楽しいと言う中、自分は何となくめんどくさくて嫌いだったこと。
総合学習の時間というのは、例えば学校の外に出て、その辺のお店の人にインタビューしてよくわからない記事を書いて纏めたり、
職業体験とか言ってちょっと遠い街まで行ってみたり。
バカ真面目な私は、その時間を使って友達と喋りって遊んでいる同級生の生産性のなさに理解できない気持ちを抑えて、楽しくもないのに他のクラスに遊びに行っては無駄な会話を繰り返した。今思い出しただけでもまじでつまらん時間だったし、これから先も二度とああいう時間は過ごしたくない。

小学生の私は、何でこの"総合学習"が嫌いだったのか?
目的がわからないor目的に対して納得していない のに、
行動することを必要とされることが、わけがわからないからだった。
何でこれをやっているのか?何のための授業なのか?
どうやったら点数が取れるのか?ゴールはどこなのか?が理解できず、
授業という名前のついた休憩時間だっただけで、本当に早く終わって欲しかった。
楽しそうに何も考えずふざけている人たちと一緒に合わせないといけない、総合的な学習の時間に、生産性は一つもなかったように思えたから。

この頃のリアルな感情に目を向けてやると、ゴールの見えない課題にかける時間の無駄を感じることは、結構早い段階で自分の中に芽生えていた感情だったことがわかる。

自分史というと、何年、何がどれくらい続いて、逆に続かなかったことは
どんなことが原因だったのか?みたいなことが中心で、それ以外のやりたいと思ってたこと、楽しかったこと、嫌いだったこと、とかは飾りだと思い込んでたけど、今回はそれが割と有効に働いた。

というよりも、何が何年続いてとかっていうのは、もう何十回何百回と考え続けて来たことだったから、シンプルに好き嫌いで棲み分けようとすることが新鮮に感じたのかもしれない。しかし、この発見は自分の中で大きいものだ。

この感情をできるだけ大切にしながら、この後の自分の選択に反映させたい。まだ、これといった答えが出ていないが、新たな発見は確かにあった。
引き続き、納得する自分への回答を考え続けようと思います。


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