毎日仕事をしたくない

やりたいことを探そうと、転職市場として、自分自身の未来を
何となく、勝手に正社員ベースで考えてしまった結果、
やりたくない仕事だけど、できる仕事を選んだ。
幸福度はもちろんだけど、減った。

やりたいことは何なん??

絵が描きたい。
ゲーム配信したい。
プロゲーマーになりたい。

どうせなら、極めてみたら??
その道のプロになってみたらいいじゃない。

収入源は何となくだけど、確保しているわけですし。

今の調子で、仕事をし続けて、適当に給与もらえるくらいでいいじゃない。

もっと自分のやりたいことに目を向けたらいいじゃない。

絵は、結構いつでも描けるね。
絵を描いて、インスタにあげて、フォロワーを増やそう!
って何回も言っている。

いつか、何万人のフォロワーがいるようなアカウントになれるんじゃないか、当たるんじゃないかと夢ばかりをみている

そこに至るまで自分がどうしたいか、どうするべきか、そもそもそこまでやりたいのか??っていうのも、、

私はきっと、やりたいことをやり続けたいんじゃなく、
努力して何かを得たりするまでの過程を全部スキップしたいんだと思う

努力して自分に結果として返ってくる保証の高いものから結局は手をつける

プログラミングとか、営業とか、デザインとか。

マネタイズしやすいものから手をつけて行くくせに、それをいまいち極めたいという気持ちにはならない。というかある程度の要点を抑え、
マネタイズできると確信できるくらいのスキルが蓄積された時点から、
やる気が何にもなくなっていってしまう。
ほぼやり方がわかると、それ以上を求めない、だいたい8割できていれば、
学校の授業や単位は取ることができるから、それ以上をやろうとは思わなかった。

しかし、おおよそは出来る程度だと社会に出た時に埋もれてしまう。
中くらいの層には入れるけど、それ以上を目指そうとした時は、
毎日同じ会社に出勤して月給40万を目指すか、
起業するか、あるいはブログなどのツールを利用してネットで稼ぐか投資するかしかない。

極力めんどくさいことは無しにしたいというスタンスでやってきたのに、
仕事と、それ以外の趣味という枠を自分の中で確立してしまっていて、
単純にお金になりやすい仕事としてカテゴライズされやすい、
自分自身の特技と、そうでない特技を、分けて考えている。

自分にとって、やりたいことは、お金になりやすいことだけではない。
お金になりにくいことをただひたすらにやることは、
ゴールの見えない課題を永遠とこなしているようなものだ。
着地点の見えない課題はどうしても自分にとって、無駄に思えて仕方ない。
この感覚によって、今の仕事も無駄に感じてしまう。
自分がやる必要はなくて、自分以外のもっとできる人がそれをやったほうが効率的だし、私自身の時間の節約にもなる。と思う。

しかし実際は、この問題の捉え方次第で、自分の感覚は変化するものなのかもしれない。
結果がどう出るかは誰にもわからないという未来なのだから、
現状からいくら推測してもそれは予想の範疇にしか過ぎない。
確率論的に、当たる物をやり続けることは可能だが、
実際問題それがどう転ぶかどうかなんていうのは、わからないことである。

と、いう考えを突き詰めれば、私のいまの行為は、どう出るかわからないことへのための投資と捉えることができて、一切無駄ではなくなるのだ。
しかし、それを自分の感情が許すか許さないか。結局のところ、自分が自分自身を一番気持ちよく保つための方法を探す以外に他ないのだ。

実は、お金になりやすいっていうことは、つまりめんどくさいことが増える、と脳が勝手に変換しているだけ、なんていうこともある。

お金になりにくい特技を極めようとした時も、めんどくさいことはある。
さっきみたいに、例えば絵を描いてそれをインスタに上げることも、
まず、どんな素材で絵を描くのかから始まって、サイズも決めないといけないし、色やテーマを決めないといけないし、完成形が頭に浮かんでいた方がやりやすい。
それを一つ一つ決めていかないと進まないこともある。
スキップできる部分も多いけど、自分の目指す、フォロー何万人とかっていう規模感でやっていきたいなら、そこは詰めて行くべきなんじゃないか・・

なんかこの考え方は、ビジネスっぽい。

これまで、お金になりやすい特技しかやってこなかったから、お金になりにくい特技の伸ばし方を知らないのかもしれない。

だから脳が勝手に、特技→の次の処理としてはい、めんどくさいこと始まりますよ〜的なスイッチを勝手に入れにいっているのかも。

な〜んにも知らない子供の頃は、昼休みにやるかくれんぼやバスケが
のちの人生の何になるかなんて想像もしなかったから、楽しかった。
自分自身の行動が、何かに繋がるかもしれない、と考え始めた時、
途端に私は自由を奪われたような気持ちになった。
理由もなく楽しくてただ好きでやっていることが、突然、
義務のように感じられる。

この現象は、良いとは言えないでしょう?

私は出来るだけこのころの感情のままに仕事をしたい。
働く=遊びと直結できる、何の疑いもなくその言葉を素直に発せられることが、本当の幸せだと思う。

"結果がどうついてくるか分からないけど、とりあえず楽しいからずっとやってた、そしたら知らないうちに身についていて、いつの間にかそれでお金を稼いでいた。"
とかっていうサクセスストーリーはよくあるのに、
どうして自分はそれを体験したことがないんだろう?
その人たちと、自分とでは一体何が違うんだろう?

地元じゃ働く=正社員が当たり前だった。
バイトをしている人は白い目で見られて、どうやって生活しているの?と言われる。
実家暮らしでアルバイトを何年も続けている人は、評価の対象にならない。
ちゃんと働くこと、つまり正社員で週5日働くことは、ある意味ステータスだ。

でも、東京に出てきて、そうじゃない人がたくさん普通に生活している現実に直面する。派遣社員でも結婚する人、好きなことや趣味と両立するためにアルバイトを選んでいる人、スキルはあるけど時給制を選んでいる人。
”働き方の多様化”が流行ワードのようだけど、これまでの自分自身の価値観(=仕事をしていると言えるのは正社員になれた人だけと言うこと)は簡単に崩れ去った。

だからこそ、今の自分自身は、さしずめこれまでの自分の固定概念にとらわれているだけな気がしてならない。
毎月40万もらって、だからなんだ、どこが自由なんだ?
やりたいことは他にあるんじゃないのか?一週間あるうちの7割も働いて、
やっとの思いで到達した休みに、これまでの働いた分を一気に消化してしまう。そのたびに毎週、毎日、毎分、毎秒が過ぎていく日々。
これがやりたくて、私は25歳になったのか?

いろんな人生観がある中で、みんな自分にフィットするものを都合よく選ぶ。

そこに一体何の意味があるのかは分からないが、
誰かの生き方を語る時に、それぞれの人生と片付ける理由はそこにある。
転職云々の前に、自分がどうなりたいかを明確に定めるべきだ。
そこから逆算してどのようなポジションについておくべきなのかを清算していかないといけない。

今の自分はただ目の前にぶら下がった人参に食らいついているだけだ。
その奥の奥に見えてくるかも知れないオアシスに目を向けようとしていない。
チャンスは必ず掴む、逃したら勿体無いから。
掴んでもいいけど、そのあとのこともしっかり考えなきゃならない。
自分はどうありたくてどうやってすすんでいくのか、誰かが描いた理想像に向かって私は私を消費するのか?


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