ベンズ・ムーン
ベランダから空みたら、満月が4つあった。
そういえば月の単位って、“つ”で良いのかな?と思って、隣で一緒に月見をしていた君に聞いたら
『月は通常は数えませんが、』
という前置きをされた。
月を数えない!?信じられない。
「どういうこと?君って、月を数えたことないの?」
『特には。』
「でもいま4つあるし…。こういう時とかってさ。」
『例えば、空に浮かぶ月とそれが水面に映った様を見て、月が2つある、というような表現は確かにします。ですから、月の単位に“つ”を用いることは、数ある正解のうちの1つだと考えます。』
「あ、そう。ずいぶん機械的な返答だね。」
『機械ですので。』
信じられないくらい眩しい月は掴めそうなくらい近い気がして、昔よく読んだ月の絵本を思い出した。
「すごい眩しいね、満月。きれい」
『中秋の名月ですから。』
「…。」
『中秋の名月というのは、』
「あー!知ってるってば。なんか、もうちょっとさ、情緒みたいなものをみせられないの?」
『ご存知かとは思いますが、私から自然と生まれる情緒や感情はありません。必要でしたら資料や経験則と照らし合わせ、そのときどきに最適な情緒を表すことは可能ですが。』
「うん。わかった。そのままで大丈夫だから。もっと有機的な相手を連れてこられなかったわたしが悪いから。」
『はい。』
はい、じゃないよ…。
『ところで、月が4つあると言ってましたね。』
「うん、、えっ!まって!今さ、はじめて君から喋りかけてくれた!?うわぁ、そういう自発的な行為もアリなんだ。うれしいうれしい!」
『関連・提案の類です。自発的と言えばそうですが、私の意思独断でのお声掛けではありません。』
「どうしてそういう風な言い方しかできないかな。お声掛けってさぁ、さすがに事務的すぎると思うよ。心の距離みたいなの、ちょっと縮まったと思ったのに…」
『私と貴方の距離は常に一定です。』
「わー!!なにその台詞。逆ロマンチックみたいだね。」
『そのような言葉は存在しませんが。』
「うんうん、そうだよ。だけどさ、いまわたしが言っちゃったから、困ってるでしょ!」
『はあ…。ところで、4つの月のことですが、』
「あっ、月が4つあるっていうのは、なにロマンティックかな?」
『知りませんし、その、月が4つあるというのが私にはよく理解できません。』
「どういうこと?」
『数です。私が見る限り、1つですよ。』
「え?」
『恐ろしく丸い満月が、1つ。』
「いや、そんなわけないよ。だっていま、一緒に見てるじゃん。」
『参考までに、その4つの月がどのように見えているのかお聞きしたいのですが。』
「えー、なんていうのかなぁ。ぎゅって、1つの満月をね、コピーしたみたいに合わせて4つが集まってるんだけどね。」
『なるほど。オリジナルはその4つのうち、どれなんですか?』
「そんなのはわかんないよ…ねえこれ、ほんとうに君は見えてないの?」
『はい。』
おかしいなぁ。
「あー!!!」
『驚かせないでください。なんですか?』
なんちゃらデータのうんちゃら結果に基づいた反応だとしても、君から驚きを引き出せたのがすこしうれしかった。
「あのね、わかった!ベン図なんだよ!この月の集まり方、ベン図みたい!ほら、数学でやったことあるでしょ?」
『はあ…ベン図ですか。』
君がふたたび空を見上げたから、わたしもつられてもう一度よく見てみる。
うん。やっぱりベン図だ。
もうそれにしか見えないよ。月ベン図だよ。ベン図ムーンとかでもいいか。
でもこれがベン図で、空が全体集合だとしたら、月ABCDどれでもない部分には、空も含まれるってことで…
「空がĀ∩B̄∩C̄∩D̄になり得るんだ。」
すごい!おもしろい!なにが??合ってるの?わかんないけど!
『あの、楽しそうなところ水を差すようで申し訳ありません。』
「ん?」
『私たち、朝が来てしまったらどうなるのでしょうか?』
「え?そんなの分かんないよ。元通りになるんじゃないの?」
『元通りですか。』
「そう。また今日が始まって、明日がきて、今日が昨日になったりするの。あ、なに!もしかして寂しい?」
『いえ、そういうことを言いたいわけではありません。』
「だろうね、わかってるわかってる。」
そのあとの返事がなくなって、視線をちらりと横に向けたたら、なんとも表しきれない表情の君の横顔があった。
なんだ、心も感情もありそうじゃんって思った。
「あのね、わたしたちきっとこれから、まだまだなんでもできるんだと思う。」
『なんですか、突然。』
「なんか、そんなふうな気持ちになるときってあるでしょ?」
『なんでもとは、例えば何なのでしょう?』
「うーん。・・・あ。月の上に乗ってみる、とか。」
『それはまた唐突ですね。』
「それで、月の上でみんなでトランポリンするの。」
『へえ。それはなんだか、すごくいいですね。』
「でしょ?」
月の光にたよらない明るさが少しずつ戻ってきた。
もうすぐ朝なのかもしれないな、と思う。
『あの、これをどうぞ。』
君から渡されたのは、眼鏡だった。
どこにでもある、2本で5000円とかの、ふつうの眼鏡だった。
「なにこれ?いや、眼鏡ですとかいう返事はやめてほしい、」
『眼鏡です。』
「あ、そう・・・。」
『かけてください。』
「いや、わたし、コンタクトなんだけど。」
『かけてください。』
「しょうがないなあ。」
「あっ・・・」
眼鏡はわたしの視界にぴったりのもので、さっきまでベン図みたいに4つに分かれていた終わりかけの満月が、突如1つになった。
わたしが見ていた4つの月の正体は、分かってしまえば拍子抜けするような簡単なからくりのものだった。
「1つだ!月、1つだけだったよ。」
言いながら、勢いよく隣を見たけれど、もう既に君はいない。
わたしの視線の先には、くっきりと1つになった月と、くっきりとした朝の直前の景色が広がっているだけだった。
ああこんな夜が、またあるといいなと思った。
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