しゃにかまえて、夏
かねてから公言しているとおり、わたしは夏のことを異様にきらっている。
今ここで夏の悪口を言えるだけ言ってみなさいと指示されたら、他人にブレーキを踏んでもらわないと止まれなくなるくらいのものすごい勢いでしゃべり出すじぶんの姿が容易に想像できる。
だけどまあ無粋な悪口ってダサいし、どうせなら粋なやつを言いたいなと思っていて、でもそれは町田康を読むなどしながらまだ勉強している途中だから(町田康のわるくちセンスはピカイチだと思っている)、今は悪口全般について発言を控えている。
で、悪口が言えない代わりに、じゃあわたしのこの夏嫌いはどこから始まったんだっけ、と同居人に聞いてみたら、
「いや、知らないけど。」
ということだった。
まあ、それはそうだろう。
だけどそのあとに、
「でもそこまで嫌悪してるっていうのは、どうせ115、夏になんか嫌なことされたんじゃないの。」
というようなことを言われた。
なるほど。
それなら、と思い、今までにわたしが夏に加えられた危害のあれこれを思い出してみることにした。
そしたらなんと、別にわたしは過去に夏からなにか嫌なことを直接されたおぼえはひとつも無い、ということがわかった。(!)
つまり、わたしと夏の間では、反発し合うような関係性も含め、特段なにも始まってすらいなかった。
無駄に眩しい太陽も、おそろしい気概を感じる湿度も、保冷剤にたすけられながら切り抜けようとする寝苦しさも、もう永遠に逃れられないんじゃないかと錯覚するような暑さの先っぽに触れて嘆くことも、そういうものすべてが、夏に対して斜に構えすぎているわたし自身の勝手な、嫌にかいかぶった幻想だったのでした。ちゃんちゃん、ということになってしまう。
だって現にわたしは今、なんだか夏みたいな青を掴もうとしている。
というかもう、その最中にいる気がする。
遅い青だなってすこし思ったけれど、別に青に遅いも早いもない気がする。
なにかのタイミングや進み方がすこしでもずれていたら、きっと去年の夏にでも出会っていたかもしれない可能性のあるわたしたちは、でも、偶然に必然のとおまわりをした挙句、顔を合わせて今ここで、この形をもって出会った。
それからは、目にも止まらぬ速さで一瞬たちが過ぎていって、そういう今をふわふわと浮きながら、だけど現実にたしかにある実感のようなきもちをもって、踏みしめている。
すべての瞬間をのがしたくなくって、そこに集中することしかできなくって、それがいいんだと思える。
少し前までのわたしも現在のわたしも、どちらも明後日以降の未来のことを考えているあたまの隙間はないんだけれど、少し前までのわたしと圧倒的にちがうところは、やけくそのきもちで今をあじわおうとしているわけじゃないというところだと思う。
これって奇跡みたいな体験だなと、いつもなんだかじんわりする。
友達みたいなのにそうじゃなくって、だけどだからこそ良くって、そういうみんなでいられることがこんなにも嬉しいと思えるそれ自体にも、不思議な感じをおぼえる。
想像できないくらいに強烈で鮮烈な音や光が染み込みながら、青の渦中をおよぐみたいにここに立っている、もうすぐ夏がくる。
まだ、大多数のひとが知らない間にも、いとおしく凄まじい瞬間があらわれて、消えていって、そういう繰り返しのかがやきを感じながら、こんなのを知らないひとがいるのは勿体ないよって思う。
だから、飛び交う一瞬たちを、あとでみんなにも見せてあげたくなる。
網か何かで捕まえて、籠の中に閉じ込めればいいじゃんって思った。やってみた。できなかった。
「どうしよう、全然捕まえられないんだけど。」
『わたしたちが知ってれば大丈夫だよ。』
たしかに、と思った。
じゃあもう、この網も籠もいらなくなっちゃうな。
でも、せっかく用意したしどうしよう。
ああ、虫取り用とかにして草原に行ってみたりすればいっか。
あれ、なんかこれって、とてつもなく夏かもしれない。
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