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冷笑 苦笑 嘲笑をくぐり抜け、わたしはあなたと談笑したい


朝、全く起きれなかった。起き上がれなかった、と言うのが正しいかもしれない。
朝だしそろそろ起きるか、と思うのに全身に力が入らなくて自分の身体を縦にすることができなかった。
ふたたび入眠をするのがいちばん楽で、というかそれしかできないような状態が長い間つづいた。
「泥のように眠る」という言い回しがあるけれど、あれを考えた人は今のわたしみたいな状態だったんじゃないかと思い、おおいに納得した。
目覚め→脱力の実感→再入眠を何セットか繰り返しすぎた結果、もう眠りたくなくなった。けれどわたしは変わらずベッドの上で泥になることしかできなかった。

ベッドの上で泥になることしかできないわたしは、泥なりに考えた。
1×3とか、今日のお昼ごはんとか、てのひらにマジックテープをつけて拍手をしたら拍手の難易度があがってしまい人々は拍手をしなくなるんじゃないかとか、そういう色々なことを考えた。
外で子どもが鳴き、猫が喋っていた。

頭の中で、きのうのうちに組み立てた今日の予定を反芻する。絶対にこなさなければいけないのは、おさんぽ・作業・号泣・読書だった。
同時並行的にできるものはなかったので、だとしたら本当にそろそろ起き上がらないと時間が足りなくなってしまうと思い、焦る。
もう今できることを先にしようと思い立ち、じゃあ今日のタスクの中で泥の状態のままできそうなのはどう考えても号泣しか無いという結論に至り、手っ取り早く済まそうとした。けれど、こんな気の抜けた状態で号泣なんてできるわけがなかった。
別に涙も出なければ喉の奥を重くすることもできず、ただ唯一できたのが、その滑稽さを受けて自ずとこぼれ出た「ふっ」とも「ひっ」とも取れない、乾いた笑いだけだった。インターネットで聞いたことのある声だった。


インターネットにおける大・冷笑期によって、一体どれだけの人間が自分の言葉でものを言い、自分のあたまで咀嚼することができているのか不透明になってしまっている。
わけのわからない大きな言葉が飛び交って、派手に着飾った言葉に群がり、小さくてほんとうの言葉が食いつくされる恐怖におちいる。

1人で完結するだけのはずだったことばが誰かとの乱雑な対話に使われたり、都合のよい意見の材料にされたりする。
灰色のインターネットに浮かぶ議論や論争はその埒外でふくらみ、盛り上がり、想像力の乏しさを嬉々として露呈する。

自分の足りなさを冷笑で守り、首をひねるほどには無い意思を苦笑でやり過ごし、流行にさらわれる弱さを嘲笑で強化させた結果できあがる今のインターネットは、いちばん最悪の部分を抽出したときの現実、みたいな感じになってしまっている。

それでもわたしは、冷笑や苦笑、嘲笑に呑み込まれ続けず、嫌に吊り上がっている無数の口角をなんとかかいくぐって、あなたや、あなたと、会話がしたい。談笑ということかもしれない。

会話は、「しましょう」と言って始める場合もあるかもしれない(実際本当にその営みを達成できるか否かはおいとく)けれど、談笑は、「しましょう」と言ったところで始められるものではない。
ただしく培い身につけたことばを試行錯誤しながら相手に向け、相手を知りながら、けれど相手を理解しているという自負だけに任せず、発する。受け取る。受けて、その結果、発する。
そこには、あなたなりのユーモアが含まれる場合もあるかもしれないし、やさしいアイロニーが潜んでいるかもしれない。
それができるくらいに他人との距離を図り、共通の言語を認識しながら自分の言葉をもちたい。


わたしは、確実にインターネットに救われたことがあるし、着実にインターネットで守ってきた自分や、自分にとっての他人がいる。けれど、インターネットに落胆することもあるし、インターネットを凶器にされることもある。

それでもやっぱり、インターネットで無数に繰り広げられつづける豊潤な態度に、どうしても救われてきた。


だから、「インターネットがあって良かった。」「ほんとに、そう思う。」って、インターネットの中にいた友だちと、インターネットの外で言い合えることが、誰にも邪魔されず、ひとりよがりにもならないかたちでこれからもちゃんと、実現されていきますように。

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