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くろくてみにくい


優しいね、って言わないでほしい。
わたしが優しいわけないから。


ほんとにほんとに私はどう考えても全く優しくない。もし優しいと思われるような行動や言動があったのだとしたら多分その日、我が家の夜ごはんがたまたま手巻き寿司とかだったからだと思う。

だから、優しいねって、私のどの部分も見てない人の発言で、そのへんに置いてあった、すこし傾けたりつまんだりしちゃえば誰にでも当てはめることのできる言葉を投げられたような気がしてすごく嫌だ。
そんな陳腐な言葉でわたしが一時的にでも片付けられてしまうくらいなら、人としてどうかしてるよとか言われた方がまだいい。これはどちらかと言うと事実だから。
信頼している友達にそんなようなことを真顔で言われた時へへへと笑ってしまったのも、ああこのタイミングでその言葉をあえてこちらに向かってチョイスするなんて本当にわたしのこと見てくれてるのかもへへへ〜のへへへです。
人としてどうかしてるのはちょっと早急にどうにかした方がいいと思いますが。

例えば、全然怒らないことについて、優しいよねと言われる。
でも別にわたしが怒らないことは優しいことではない。
怒るとわたしはおそらく十中八九泣きはじめてしまうので怒らない。
怒るとそれはもう、“さっき怒ってた人”になってしまうので怒らない。
“さっき怒ってた人”になったわたしはどんな顔をしていれば良いのか分からない。
おそらく世の中にたくさんいる “さっき怒ってた人”は皆、“ずっと怒ってない人”みたいな顔をして街に溶け込んでいる。私はそれができないから怒らない。

それならじゃあ、“いま怒ってる人”になればいいじゃんと考えたことはあるけれど、それは結局“ずっと怒ってる人”にならないと維持できない状態なのでいちばん難しい。ずっと怒ってるというのはとても疲れるから。
帰路の電車で同じ車両に乗り合わせたヤバそうな人が全員降りる、でお馴染みのわたしの最寄り駅にはこの“ずっと怒ってる人”にかなり近い人が頻繁に出現するけど、正気の沙汰では絶対に成せない技だといつも思う。



例えば何かをゆるしたとき、優しいねと言われる。でもやっぱりそれも全然優しいわけがない。
少なくともわたしのゆるしはただの怠惰から来るものだから。ゆるした方が楽だからゆるす、ゆるしてしまうことで曖昧に崩れていく矜恃よりも、ゆるさなかったことで生まれる諍いや貸しのほうをいつも面倒くさがりおそれているから。

こうやって怠惰から来るわたしのゆるしが万人に向かって適用されてしまうことで、報われるべき本当の良い人が損を被っていることはきっとよくあると思うし、それを分かっていながら知らんぷりをして自分のことだけを考えゆるし続けるわたしはやっぱりどうしても優しくない。
自分の安寧を保つために他人のことを考える余裕なんてないよ、という一片の優しさも無い意思表示をしている。
だから、絶対に優しいねなんて言わないで。もっと何かましな世辞で喜ばせてください。

わたしたちは昔から、優しいという言葉にあまりにもすべての意味を委ね過ぎていたと思う。
小学校の教室でまわりの友達を褒める時だってみんなすぐに優しいって言ってた。
いつも優しいとか、根は優しいとか言って、学級委員も、意味もなく私に腹パンしてきたやんちゃな男子も、結局全員優しいらしかった。
そんなわけないよう、少なくとも私はその頃から優しくなかったし。と思う。
こんな感じで手垢の付きすぎた優しいという言葉を今になっても使われると所詮あの頃の教室の延長線なんだな・・・と落胆するし、こんなわたしに向かってわざわざその言葉を投げるのは趣味の悪い皮肉か何かですか?と思っちゃう。
なんてさいあくなひねくれ少女(少女って言わせて♩)なんだ…。



でも世の中にはたしかに、ほんとうに優しい人がいる。
そういう人のことは、他意は無く、純粋にすごいなぁと思う。だけどきっと友達にはなれない。
やさしいは私にもなれる。
私のまわりに優しい人はいないけど、やさしい人はたくさんいる。

私が昔、「ぬるくてあまい」という曲を作ったとき、隣にいた友達が同級生の名前を出して、あの子は本当に優しい、ただ本当に優しい。「しろくてにくい」と言った。
少し分かってしまったから、だから多分ほんとうに優しい人が現れても私は友達にはなれない。
くろくてみにくい。








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