トマトを抜かない
(きん)
夜、コンビニのレジ前に置いてあるあの透明の箱に入ったつくね串を食べたくなったから、最寄り駅で待ち合わせをして同居人とファミマへ寄った。
わたし「この前行ったときさ、もう売り切れてたんだよね。」
同居人「へえー。今日はあるといいね。」
わたし「うん。」
同居人「あたしもつくね食べたくなってきたな。食べたろ。」
わたし「あるかなー。最後の1個とかだったらどうする?」
同居人「そしたらまあ、ケンカ始めるしかない。」
わたし「それはそうだね。」
同居人「うわっ」
わたし「なにー?」
同居人「つくね残り1本だわ。」
わたし「えーー泣」
同居人「じゃあ、するか。ケンカ。」
わたし「うん…。」
同居人「・・・。」
わたし「・・・。」
同居人「はやくしてよ。」
わたし「そっちからはじめてよ。」
同居人「・・・。」
わたし「あんぽんたん。」
同居人「おたんこなす。」
わたし「・・・。」
同居人「・・・115食べたら。つくね。」
わたし「やったー!」
同居人「やったー!じゃねえだろ、ありがとうだろ。」
わたし「ありがとう!!」
同居人「はい、どういたしまして。」
(ど)
トマトを食べてもらった。
おいしそうなサラダを買ったら思いがけず端っこの方に固形のトマトがあったから、トマトを食べてもらった。
トマトが文字通り死ぬほど嫌いなわたしには、往々にしてこういう場面が発生する。
わたしって、人にトマトをあげるためにトマトを嫌う味覚をもってるんじゃないかな、とか思う。
だってわたしがトマトを嫌いじゃなかったら、「あっトマトだ」とか「トマト食べてくれない?」とか「トマトほんとに嫌いで…」とかいう発言を一切通ることのないまま、機械的に赤色のやわらかい物体を口に運ぶだけで終了してしまう。
だけどわたしはトマトが嫌いだから、「あっトマトだ」「トマト食べてほしいな」「トマトは食べものじゃなくて、宇宙。」とか言える。
このときだけは、基本的に天気のはなししかできないわたしの手札が、1つふえるのでした。完
(もく)
はじめて1人でサイゼリヤに入った。小エビのサラダ(トマト抜き)をたべた。
1人でサイゼリヤに入るということは小エビのサラダに乗ってるトマトを食べてくれる人は誰もいなくて、だから最初からトマトを抜いてもらうしかなく、まったくもって風情がない。
ポンっとテーブルに置かれた時点で既にトマトがない小エビのサラダなんて・・・。
これまで小エビのサラダを7年以上食べ続けてきたけれど、小エビのサラダ(トマト抜き)がこんなにもさみしくて味わいに欠けるなんて、全然しらなかった。
トマトを舌で味わえたことがないくせに、トマトの乗っていない小エビのサラダから味わいの消失をおぼえるのは不思議だけれど、まあ食事って全身でするものだからね…。舌で感じるあれこれだけでする食事って食事じゃなくて舌乗せだからね。なんですかそれは。
もしかして、トマトって未知だから宇宙すぎるけど、会話をふくんだ対人行為もわたしにとってはかなり未知で、だからそういう未知のものとわたしを知らないあいだにトマトが程よくゆるやかに繋げてくれてるんじゃないのか…。
てことは、トマトをふつうにスーパーや八百屋さんで手に入れられるのは、トマトが果たす本来の役割に見合わない劇的なお手軽さなんだと思う。
小エビのサラダ(トマト抜き)のさみしさを、ドリンクバーからとってきた白ぶどうスカッシュで流し込む。
ごくごくと上を見たらサイゼリヤの天井に天使がいて、よかった。
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